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[コメント] マルメロの陽光(1992/スペイン)

美の姿、芸術の姿、映画の姿。
tomcot

しばらくぶりに見直した『マルメロの陽光』は、やはりあまりに感動的な作品であったが、所々に「これは映画である」と少々言い過ぎているような部分が見られたのは意外だった。ここにはアントニオ・ロペスとマルメロの木の親密ささえ映っていればそれで十分ではないか、そう思った。しかしなんとエリセはこの映画をアンドレ・バザンの論文を読みながら撮っていたというのである。全く泣けるではないか。この時エリセは本当に「映画」が撮りたくてしかたがなかったのだ。

アントニオ・ロペスはマルメロの木を描くに際して、自らこの映画をエリセに提案し、この映画を撮り上げることに対しても、絵を描くのと同様に、慎重に取り組んだ。おかげであれほど周到な映像がそろい、エリセの映画は見事に完成された。ドキュメンタリー映画が成功するには、まず被写体によってその作品が何を撮ろうとしているのか理解されることが重要である場合は多いが、特にこの映画などは、ほとんどエリセとアントニオ・ロペスという2人の芸術家の共同作業で作られたと言っても言い過ぎではないはずだ。

映画の中で、細い木にどっしりと実ったマルメロの実の姿と、何度か語られた芸術についての言葉によって、マルメロがアントニオにとってのヴィーナスであったことが暗に示される。調べると、マルメロとはヴィーナスに捧げられた果実なのだという。アントニオ・ロペスにとっては、アトリエにあるヴィーナスの石膏を描くのでも、ヴィーナスの象徴となるような女性をモデルに描くのでもなく、庭に植えた、刻一刻と変化するマルメロの木を時間をかけて描くことこそが、美と豊穣の女神へと近づくための唯一の作業だったのだ。

エリセがアントニオ・ロペスの描く絵画へ向ける視線と、アントニオ・ロペスがエリセの撮る映画へ向ける視線、そのどちらにも間違いがなかったところに、芸術と映画の神に愛された作品が、そのものとしての美しさをもたたえながら、存在している。

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(見直す前の感想は以下のとおり。)

コメント:この映画を観返したいと毎日毎日思い続けて、初めて観てから10年近く経ってしまったよ。

レビュー:恐らく93年か94年には観ていたはずだから、やっぱり結構な年月は経っている。これには自分でも少し驚いた。当時の私はこの映画を受け入れるには若すぎただろうけど、それにしてはかなり頻繁にこの映画のことを思い出すし、そのこと自体が一つ自分の中でちょっとした気分転換になっていたりもする。今改めて観ることで、失うものより得るものの方がはるかに多いに違いないと思いつつも、なんとなくもったいなくてその時を延長しつづけて今の今まで見返す機会を逸していた。でもこの気持ち、絵をいつか完成させてしまうことよりも、完成させず続けることの方を心のどこかで望んでいるかのように延々と描き続ける画家の気持ちと、すこーしだけ似ているのかも知れない。大事なものは、長い時間の流れと共にある。そのことの幸せ。

(評価:★5)

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