[コメント] トニー滝谷(2005/日)
彼らの「世代的」とも言える「喪失感」は、しかし、より若い世代にも共感を持って受け入れられているようだ。一定の水準を持った仕事であることは認めながらも、どうしようもなく頑固な生理的な拒否反応を覚えるということは、内容的な問題以前の、つまり、近接する世代間に特有の反感なのかもしれない。
この映画を観てあらためて思ったのは、その拒否反応は、つまり、「喪失感」を共有できないことが理由なのではなく、その一見繊細とも見える表現に、内実の粗雑さを観てしまうからだ。自己存在の問題を常に最優先に考えることしか出来ず、それを当然のこととして内省すらしない、未成熟な横暴さを感じてしまうゆえの嫌悪感。
言葉にすればホントにささいなことで、たとえば坂本龍一のピアノのタッチの雑で鍛えられていない音色、それを曖昧さでごまかすような録音処理。たとえば、「彼女はかなり有能な主婦であった」というフレーズの「かなり」という言葉に対する無神経さ。そうした微細な、ほとんど「におい」というのレベルでの表現の集積が、作品世界に没入することを許さないバリアになってしまう。キモチワルイのだ。
そうして、作品世界に入り込めず、その外側に取り残された目から見ると、これは、他人の迷惑も顧みず、自らの内なる「喪失感」とただただ戯れるだけの小児的自慰行為の物語、としか見えなくなるわけです。ったく、こんなことに宮沢りえを使わないで欲しい。
悪しからず。
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