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[コメント] ジェリー(2002/米)

私はただ、圧倒的な恐怖、恐怖、恐怖の連続としてこの映画を体験した。ダイビング中自分の周りの海の水の量の圧倒的な多さに突如覚えた深い畏怖に近い感覚である。こうした感覚を呼び覚ました理由を考えそれを記録することがこの映画の評価になろう。
ジェリー

恐怖の理由はどう削ぎ落としても3つある。

まず、サミュエル・ベケット的なミニマルな状況設定、すなわち彼らがなぜあの場所を歩き続けるかという説明を一切排除したストーリーである点を挙げておく。

世界が「実は」説明不可能なものであるという感覚は、意味というものに日頃まみれて生きている我々にとっては時に取り込んだ方が良いことがある。世界との関係再構築のきっかけになるからである。しかし、この瞬間に臨む当人の気分は決して快適ではなく、かなり苦痛に近い感覚を耐えなければならないことが多い。人間は徹底した無意味や不条理に耐えるには本来向かない弱さを持つ。野生動物より遙かに弱い。

この映画において、二人の登場人物がこうした環境におかれていることについて監督が一切説明責任を負わないとした瞬間に、その権利と責任を不可避的に負う良心的な観客は意味づけのない世界を前にして、意味づけることの責任と権限に関する恍惚と不安を 経験することになる。こうしたプロセスにおける、ガス・ヴァン・サントのエモーション・マネジメントは大変的確で、薬物の専門家が開発途中の薬の効能を確認するために臨床実験中の人間に対して向ける眼差しのような冷静さとしたたかさを感じる。意味づけ経験に不慣れな人間−例えば私のように−は、これを恐怖として生きるのであるが、たいていの観客が、意味づけ体験に関してまったくのアマチュアであることを承知の上でガス・ヴァン・サントは絵作りをしている。彼はこの映画が恐怖映画になることを知った上で制作をしているということだ

第2に、出発地点から遠くに離れる演出が徹底されていることを指摘したい。最も安全なゼロポイント、例えば自分の家や、山登りの中継拠点なんでもよいが自分を保護できるもののある見知ったところから遠出して方向の感覚を失い、迷子になってしまったときの感情は、実に気持ちが悪いものだ。こうした感覚を醸成させるための演出がこの映画はとても巧みである。不都合や不愉快な事態に「深入り」してしまったことに気づいたときの感覚もこれに近い。

この映画はワンカットが実に長い。その長いカットの間観客は、車による移動または徒歩による移動の体験を生きており、観客は映画開始後の早い段階で彼らが殆どの時間を移動しているだろうという予測を刷り込まされていく。こうした操作に加えて、夜が来て朝になるカットがさしはさまれたり、高速度撮影による雲の実に早い動きがさしはさまれていることで時間が経過の長さも刷り込まされる。こうした時間×移動距離の演算の結果、彼らがおそろしく長い距離を移動していることを観客は理屈としてではなく皮膚感覚で理解することになる。この感覚形成が私に恐怖を感じさせるのである。

第3に、風景の美しさを指摘したい。千変万化する山並みと砂漠の描写が、まるでジョン・フォードの『捜索者』と同じくらいのレベルで美しい。(褒め言葉である)山肌の赤すぎる赤と、空の青すぎる青の異様なコントラスト。稜線の明確すぎる明確さ。美しいものの持つ非人間的な完璧さ。これは畏怖するしかないものだ。これは三島由紀夫が『金閣寺』で採り上げた主題で、吃音の主人公が金閣寺に対して抱いた印象も畏怖ではなかったか。

以上の3点が、この映画に感じた私の恐怖感の根拠。『捜索者』やロッセリーニの『無防備都市』、ヴィゴの『アタラント号』、1作目の『ゴジラ』、清水宏の『ありがとうさん』などを、私は出来が良すぎるゆえに毒気が強すぎるとして今後見ることは絶対にしないと封印してきた。この映画も封印されるべき映画のジャンルに入る。今後忌避するという意味で1としておく。

(評価:★1)

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