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[コメント] 大阪物語(1957/日)

日本型資本主義のエートスはすでに江戸時代から涵養されていたのだった。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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デフォルメされた悲喜劇で、中村鴈治郎が狂えば狂うほど、序盤の米拾う惨めさが思い出される。家を飛び出す林成年らは何も不安じゃないのだろうか、と小心者の私など思ってしまう。鴈治郎は不安なのだ(テレビドラマならクライマックスに回想シーンが出てきて白ける処だが、当時の映画はそういう下世話なことをしないのがいい)。人の不安は傍目には滑稽なもので、笑っている当人も不安がりだしたら切りがないから考えないようにしているだけだが、しかしそれが正しいとは思っていない。この底無しの負のスパイラルが一方で吝嗇家を生むのだろう。日本型資本主義のエートス、という感じがする。

普請中の家で鴈治郎と三益愛子が出会う件や、茶屋で落としたジャリ銭探す件から、某資産家が割引ディナーのために庶民の行列に入ったという逸話を思い出した。江戸時代にはこの手のけちん坊噺を肯定的に伝授した商い指南書が人気を博したという話を何かで読んだことがある(今でもそんな本はゴマンとある)が、本作はいわば、その指南書の仏教(「墓場に銭は持っていけまへん」)による脱構築話だ。西鶴ってすごいと掛け値なしで感嘆した。大衆文芸とはこうでなくてはいけない。映画もこのスタンスをよく汲取っている。

有名どころが顔を並べるなか、話は鴈治郎・三益VS林・勝新太郎の対決にスライドしていく。当然に香川京子市川雷蔵の道行を期待していると肩すかしな訳で、この脱線が面白かった(脇に回ったこのふたりも上手い。香川のちょっとした表情のつけ方で映画が躍動している)。最後はもっとも有名でない林が美味しいところをかっぱらう訳だが、この兄貴、気持ちの良い奴で印象に残る。最後に病床から現れる浪花千栄子は幽霊のような佇まいで、この壮絶なショットだけはミゾグチが撮ったかのようだ。

悲惨をユーモラスに撮るのは吉村=新藤ラインの十八番(最近発見した)だから、これは吉村の佳作でありミゾグチ云々は無視してよい。しかし、もしこれがミゾグチの遺作になっていたら、これまでの傑作群の病巣を直接抉る作品になっていたはずで興味が尽きない。クロサワ曰く「ミゾさんは脚本は書かなかったが、依田さんの肩越しにあれこれ注文をつけていた」のであり、このままの物語にはならなかっただろう。それとも、このようにコミカルに撮っただろうか。

(評価:★4)

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