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[コメント] 恋にめざめる頃(1969/日)

やばい。酒井和歌子に惚れてしまいそうだ。
G31

 感情の機微や変化の表現が上手く、テーマの絞り込みも巧み。成瀬オリジナルの戦前の家族観やその革新さまでもが、この時代に成立して見える。成瀬の時代から35年も経っているのだが。日本は、否、日本人の人心は、この後の40年でより大きく変わったのだろう。いまの時代に置き換えたら、偽りの夫婦なのに何故さっさと離婚しないのか、特別な事情でもあるのかしらと却って疑念が沸きかねない。ファッション・風俗はよっぽど現代に近いのだが(新宿の地下街が今と一緒だ。当たり前か)。

 東宝青春映画の同僚(?)、内藤洋子には、スターのオーラがある。つまり彼女以前の銀幕のスター女優と呼ばれていた綺羅星たちと同じ輝きがある。主演女優として、存在感だけで映画を一本背負って立つに足りる、ある種の風格がある。

 酒井和歌子にはそれがない。彼女にあるのは、後の70年代に花咲いた≪アイドル≫歌手スター連中と同じ、隣りのお姉さん的な親しみやすさだ(もちろん目の当たりにしたら抜群に可愛いかったろうが)。実際、内藤洋子の出演作はほぼ主演級だが、酒井は、あれ?酒井和歌子出てたっけ?的な薄い印象作品含め、脇役が多い(気がした)。

 銀幕のスターに憧憬するドのつく映画好きな私としては、この手の親しみやすさは、映画を卑近な存在に貶めるものとして、本来、忌み嫌う(とまで言うと大袈裟だが)。だが一方で70年代に生まれ育った私でもあるからには?、スターへの憧憬は憧憬の領域にとどまり続ける反面、酒井和歌子の身近な魅力には、グイグイ惹きつけられてしまう現実がある。表情なんて大きく3パターンくらいしかないのだが、ついグッとくるのだ。

 というより、もう、酒井和歌子には惚れてしまった。本作ではかろうじておしとどまったのだが、シネスケ未登録の『街に泉があった』を見て、耐えられなくなった(耐える必要もないわけだが)。事実『街に〜』でも酒井は、マドンナ(恋の対象)ではあるのだが、役割としては脇役だった。酒井の業界的な位置付けを、巧みに再現した作品であった。本作にも、同じことが言える。

 回り道をしたが、要するに私の言いたいことは、本作は映画としての作りが実にしっかりしている、ということ(あれ?そんなことが言いたかったんだっけ。まいいや)。役者に過剰な演技をさせたり、それに依存したりすることなく、枠組みとして映画を進行させる技巧が確かなのだ。それは、成瀬作品がまさにそうであった。千葉早智子(成瀬元作『二人妻 妻よ薔薇のやうに』で、酒井が演じていた役を担当。後の成瀬妻)には、これぞ理想の日本の娘(大和撫子)という感じのふくよかで高貴な美しさがあった。それだけで充分であり、彼女の演技力を云々言う人はいないと思う。

 父親役の風情だけは大きく変わっている。丸山貞夫(in『妻よ〜』)は社会の道徳的正義を達成できない男としてのふがいなさを全身で表わしていたが、土屋嘉男(の演じたキャラクター)にはどこか独立独歩の気概、気概ある男として描かれているように感じた。

85/100

(評価:★4)

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