[コメント] 水の中の八月(1995/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「小学校の時、授業中とか、ぼーっとしていたときに感じていた懐かしい感覚。」この映画が残り続けるとしたら、こういった感覚を描き出した点にあるのではないだろうか?
奇跡的に退院した泉が、事故後の自分の変化として、真魚に、すべてのものへの懐かしい愛おしさを物語る場面で、魚のクローズアップのシーンがあった。このクローズアップは、高橋由一の「鮭」を想起させる。画家が対象を見つめたとき、対象自体のほうが、画家を捉える、といった体験は画家にはよくあるらしい。またそういった感覚は、どうも私たちすべてが体験したことがあるはずなのだ。
これこそ原初的な空間体験というべきものなのだろう。母親の胎内でもたぶん感覚していたような空間体験は、もっと世界との直接的な交流であったはずなのだ。
また、この作品では、石化病や隕石、星占いなど極めてSF的な演出の横に、人類に普遍的なものが仕組まれている。 水や石といった、人類が太古から関係してきたものへの宗教的畏怖。 雨乞いの儀式をほうふつとさせるもの。(私の住む京都でもこういった伝説は多い) そういえば京都の祇園祭も水がもたらす疫病蔓延ではじまった祭りだ。博多の山笠も作品内で泉が語るように、同様である。 弥呼山(立花山)のシーンも好きだ。京都の愛宕山、比叡山などを眺めながら、そこには何か恐ろしいものが潜んでいるのではないか、と感じることはたびたびあった。奇怪な形をした山には、不思議な魔力がある。
それに、これは少女との出会いと別れの物語でもあるし、一度しかない青春をめぐる回顧の物語とも読み取れる。また生と死をめぐるものがたりとも受け止められる。 と考えると、これは私たちの意識の系譜を示した映画なのかもしれないぞ。
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