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[コメント] バロン(1988/英=独)

この「白髪三千丈」風の法螺話は、「理性の時代」に立ち向かう、ナンセンスと経験主義、即ち冒険の精神。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







男爵(ジョン・ネヴィル)が自分の髪を引っぱって宙に浮かぶ場面は元々、映画の元になったミュンヒハウゼンの挿話として有名なものだが、この、物理法則を無視した「物は引っぱり上げれば浮く」という類推だけで事を処理してしまう空想性、その奔出が全篇を覆うので、次々と繰り広げられるスペクタクルに感心しながらも、その妄想のグルーヴ感だけで終幕に至るかに思えた時には、幾ばくかの虚脱感を覚えなくもなかった。が、最後に町の人々が、理性と合理主義の権化のような支配者が制止するのも無視し、男爵の号令と共に門を開くと、男爵の言った通り、トルコ軍は消えている。

冒頭に掲げられていた「理性の時代」という字幕、この「理性」とは、つまりは、安全な場所に引きこもって、未知への扉を閉ざすという意味で、町を囲む城壁の事でもある。男爵の、自分の髪を引っぱり上げるという行為も自己完結的ではあるが、理性の城壁もまたそうなのであり、理性は或る意味では世界に対して、盲目なのだ。その点、男爵は、彼が砲弾に乗ってトルコ軍との間を往復した事について、興奮して語る劇団の娘サリー(サラ・ポリー)の言葉の細かい異同をいちいち修正するし、大魚に呑み込まれるという異常な出来事に遭遇しても、「私の経験上」云々と言って袋から粉を撒いて飛び出してみせる、といったように、自らの体験を重視する、経験主義、実証主義の態度を貫いている。

例え突飛な、不合理と思える事であろうと、自分の目で確かめた事だけを信頼する、という事。理性の囲い込みの中で人々が抱き続けていた「城壁の外にはトルコ軍が居る」が、実際に門を開いてみれば、妄想だったという事。町の支配者は実は密かに、トルコ軍の指揮官との間で「合理的に」勝ち負けを交渉し合っていた。その場面自体が男爵の妄想内の光景なのだと解釈する事も可能だが、そうすると、そもそもトルコ軍が攻めて来た場面そのものも、男爵の語りの中に入ってしまうのではないか。

群衆は、他人の言う事をそのまま受け入れるという意味では、町の権力者の声から男爵のそれへと乗り換えただけなのかも知れない。だが、彼らが男爵に従ったのは、借り物ではない自らの知恵で未知へと斬り込んでいく勇気に励まされてであり、予め計算され囲い込まれた世界からの解放を希求しての事に違いない、と感じさせてくれる。そこがこの映画の成功の証しだろう。

カント曰く「啓蒙とは、人が未成年の状態から抜け出す事である。(…)この状態の原因は、人に悟性が欠けているからではなく、他人の指導が無くとも自ら悟性を働かせる勇気と決意を欠く事にある」(『啓蒙とは何か』)。

(評価:★3)

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