[コメント] 花影(1961/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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昔、中森明菜が『十戒』で、「優しさは気弱さの言い訳である」と歌っていたが、ある種の気弱さから来る優しさには、どこか怠惰で不誠実な匂いが漂う。葉子(池内淳子)にそれを感じたからこそ、お米(淡島千景)は彼女を雇うことに躊躇を示したのだし、逆に言えば葉子は高島センセ(佐野周二)にそういう優しさを見ていたからこそ、進んで切り捨てることは出来なかった。
私に言わせればこの優しさとは、言葉にならない感情、言葉以前の感情というものの存在を認め、それを受け容れることなのだ。だがこの言葉時代の現代においては、こういうスタンスは広く受け入れられてはいない。つまり居場所がない。居場所のなさを感じたときにこういう人間のよすがとする価値の一つが、ある種の潔さである。自分の居場所のないこの世の中に未練を残さない。きれいさっぱり退散する。自死は、きれいな選択肢の一つなのだ。
だが現実には、服毒自殺は糞尿垂れ流しだというし、本当に苦しまないで死ぬものなのか、誰にもわからない。同じ年に撮られた『女は二度生まれる』の小えんのような女(流れて生きていく)の辿る、一つの結末を描いているかのようなこの作品を、静寂に満ちた厳かな死で締め括る在り方は、監督・川島雄三の人としての優しさであろう。特に浜村淳(だったかな?)のナレーションがよかった。
この作品の池内は、あまり綺麗な感じでなかった。落ちぶれかけた銀座のホステス(女給さん)という設定だからそれでいいのかもしれないが、年代でいうとこれ以降の作品でも彼女を見たことあるが、そちらの方が、大らかなエロティックさがあって、はるかに印象的である。
80/100(08/09/14記)
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