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[コメント] 地球最後の男 オメガマン(1971/米)

愛と平和と反文明、フラワー・チルドレンの陰画としてのファシズム?
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







政治的含意に於いては、同じくヘストン主演の『猿の惑星』の二番煎じのような印象すら受けるのだが、キリストによる「血の贖い」に、政治的(血液に皮膚や瞳の色の違いは関係ない)、化学的(血清による救済)な意味合いを与えたラストはなかなか面白い。

この映画の終末論的状況は、国家間の戦争で使用された細菌兵器が作り出したものであり、またネビル(チャールトン・ヘストン)が三年間も観続けていた映画が、野外ライブにフラワー・チルドレンが大集合する様子のドキュメンタリーである事など、政治的な意味合いは最初から示されている。ドキュメンタリー映画の中でインタビューを受ける青年は、「皆が一緒に幸せになるべきだ」と言う。「通りに出るのを恐れたり、他の人に笑いかけるのを恐れていては、生きていけません」。まさにネビルの置かれた状況そのものであり、その上なおも彼が生きているのが皮肉に思える。

感染者のリーダー格であるらしいマサイアス(アンソニー・ザーブ)の傍には、元黒人の仲間がいる。彼がネビルに対して「白豚野郎」といった意味の蔑称を使うと、マサイアスはそれを諫めて、過去の対立は忘れろ、と言う。電気や銃といった文明を否定する彼らは、フラワーチルドレンの思想の陰画としてのファシズムを体現しているのではないか。更には、ネビルの血清の効果が証明された事によって、闇に生きる感染者として留まるかどうかは、個々の選択の問題となる。「奴ら」と「我々」を隔てるものは生理学的な壁ではなく、思想的な壁となるのだ。

ネビルが初めて出遭う生存者であるリサ(ロザリンド・キャッシュ)は、元々はマサイアスたちの仲間だったが、「目や肌の色が違う」と阻害され始めたので逃げだした、という。つまり、髪も瞳も肌も白い感染者たち、白紙に返ったような彼らにも、差別意識はやはり残っている訳だ。

最初の内、生存者がいる事を信じないネビルは、街頭で公衆電話が鳴っても幻聴だと考える。洋服店でリサと遭遇した際も、彼女に逃げられ、見失うと、あれは幻覚だったのだと諦める。そんな彼は、元は同じ人間であった感染者たちよりも、マネキン人形に対して親しげに話しかける。この倒錯性。

ネビルは、他人を目の当たりにしても、それを見たのは自分以外にいない、という事で、その他人の存在を認める事が出来ない。つまり、自分の脳内イメージではなく、現実に存在する「他人」を認めるには、第三者としての他人がやはり必要なのだというパラドックス。

ラストでのネビルは、イエス・キリストそのものだ。敵対者によって槍で刺し殺される事、噴水の彫刻に身を委ねたその恰好が、両腕を広げて、キリストの磔刑図に模している事、彼の流した血が人類の救済となる事、その血清の入った瓶を手にして旅立つ青年が、先立つ場面でネビルが「人が足を踏み入れていない自然の許へ行こう」と言ったのに応えて「エデンの園からやり直すんだ」と唱和していた事。これら全てに、キリスト教的な含意が込められている。

このラスト・ショットでは、画面の色彩が反転した陰画になる。血は青色になり、その「赤さ」という特定の色が救済の象徴となるのを避けているかのようだ。体色の違いが対立の象徴となっていたこの物語の終幕には相応しい。

(評価:★3)

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