コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ラ・マンチャの男(1972/米)

ミュージカル臭さの苦手な人にも受け入れられる設定の妙、 すなわち、虚構の入れ子構造に注目してみよう。
ネーサン

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







"現実"は宗教裁判の最中。 神を冒涜したとして獄に放り込まれたセルバンテスは、 獄中の囚人たちの「裁判」にもかけられてしまう。 自身の綴った物語を弁護すべく、囚人たちを巻き込んで語られ、演じられる"物語"が、「ドン・キホーテ」だ。

悲しい顔の騎士=ドン・キホーテは狂気の世界にいるのだが、 彼は理想と正義を追い求めてやまない。 彼の世界では風車が魔物に、宿屋が城に、宿屋の下女が姫になる。

この狂気を否定し、ドン・キホーテを現実のアロンソ・キハーナに引き戻すべく「魔王」を演じる医学者がいる。 彼の行為は一般的には善意と呼ばれるものであろう。 常識の側にいる人間の思いやり、悲しみもきちんと描かれている。

さて、これらを獄中の囚人たちがそれぞれ演じることをもう一度思い起こして欲しい。 映画の枠の中で演じられる「芝居」、その芝居の中にも「芝居」があるわけだ。 これこそは、この映画を臭みのないミュージカルに仕立て上げたからくりである。 劇中劇の幕切れは、即興で演じられた「理想」の勝利である。 獄中の裁判では、セルバンテスの勝利となったのである。 映画の幕切れは、セルバンテス=ラマンチャの男が、宗教裁判に召喚される場面である。 劇中劇と二つの「裁判」をつなぐのは、高らかに歌われる「見果てぬ夢」。 セルバンテスが立ち向かう宗教裁判、その行方は、我々の想像に委ねられている。

文句なしの名画だと思う。

ピーター・オトゥールは、本物の役者だ。 なぜなら、彼の瞳は、劇中劇中劇の中でもっとも澄んでいたのだから。

この映画はいまだDVD化されていなかったようだ。 アマゾンでは近日発売(予約可)となっている。 岩波書店版「新訳・ドンキホーテ」を買い求めようとしたのだが、上巻が品切れ。 なんてこった。 いつの世も現実は厳しいようである。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)イライザー7[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。