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[コメント] 異邦人(1968/仏=伊=アルジェリア)

以前のコメント「若い頃観た時は衝撃だった。もう一度観たいが、今観たら評価が下がるだろう」。デジタル修復版で約30年ぶり再鑑賞。案の定評価下がる。
ペペロンチーノ

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デジタル修復版の公式サイトによれば「日本初公開は1968年9月、以降は短縮日本語吹替版がTV放映されたのみ」だそうだ。実は私、このTV放映を観ているんです。たしか大学生の頃。その際の感想を、後に思い出しコメントとして「若い頃観た時はやたら衝撃だった。もう一度観たいが、今観たら評価が下がるだろう」と書き残していました。

今回、たぶん30数年ぶりの再鑑賞。 案の定、評価下がる(笑)。

カミュの原作は元々知っていて、「太陽が眩しかったから」(映画では「太陽のせい」と訳されていた)は高校生の頃の言い訳の定番ネタでした。待ち合わせに遅れたら「太陽が眩しかったから」。忘れ物をしても「太陽が眩しかったから」。早弁しても「太陽が眩しかったから」。太陽は罪な奴。

変な映画なんですよ。繫ぎとか変で、私はそれが「短縮版」のせいだと思っていました。 今回観たら、短縮版のせいじゃなかった(笑)。

私が思うに、ヴィスコンティの映画は「執拗」という表現がしっくりくる。 ところが本作は、ずーっと「淡泊」に進むんです。いや、終盤の裁判部分以降は「執拗」なんですが、前半のドラマ部分は「淡泊」。 おそらく、カミュの原作がそうなんでしょうし、監督の描きたいことの大半が終盤の「論理」に集約されているからなのだと思います。 ただ、映画としてはなんだか歪(いびつ)。不条理的なことを意識した結果なのかもしれませんけど、「ドラマは淡泊」「理屈は執拗」という印象。 あとやっぱり、ヴィスコンティ伯爵に庶民は描けんのですよ。

「無神論者」の持つ意味合いが日本人には到底理解できないことも含め、正直「何だかなあ」感が否めない映画なのですが、今観ると違う意味で不条理感が見えてきます。

言わば「不条理な正義感」。

被告人マルチェロ・マストロヤンニに向けて振りかざす検察官の「正義」が、まるで今時の「ナントカ警察」みたいな理屈に見えてくる。てゆーか、理屈になってない。もはや暴力。 ああ、そうか!これは「暴力の連鎖」なんだ! 第二次大戦の頃にカミュは既に、「正義が暴力になる」ことを描いていたのかもしれません。

殺人と母親の看取り方と何の関係があるんだ?というのが不条理だったのかもしれませんが、今やSNS等で過去の発言をあげつらって個人を非難する暴力が当たり前の様に行われますものね。当時の不条理は今の日常。

余談

こんなに汗をかく映画って他にない。もしかすると映画史上最も汗をかいている映画かもしれない。「太陽」を観客に感じさせようという意図かもしれません。 『山猫』でも私は「室温を感じさせる舞踏会」と書いているのですが、実はヴィスコンティは「温度」も描写しようとしていたんじゃないか?という新たな発見。

(2021.03.14 デジタル修復版を新宿シネマカリテにて再鑑賞)

(評価:★3)

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