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[コメント] 鏡(1975/露)

タルコフスキーの自画像。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







大学生の頃から大好きで、かつてはテレビ録画のビデオ(VHS!)を何度も観た映画。何度も観ましたよ。だって途中で寝ちゃうんだもん。今回はリマスター版(だと思う)を劇場鑑賞。

タルコフスキー、好きッ!いや駄洒落じゃなくて、いや駄洒落なんだけど、こういうタイトルの本が実際にあったんですよ。持ってるし。たしか追悼本。黒澤明や手塚治虫のタルコフスキー評が読める貴重本なんですよ。押井守や石井聰亙はじめ多くの人が異口同音に「眠い眠い」と書いているんですけどね。そういや今時の人は、ネトフリやアマプラで映画を1.5倍とか2倍速で見るんですってね。タルコフスキー、倍速で見ても遅いから。倍速で見ても寝るから。

映画冒頭、吃音の子が話し始めます。これは、タルコフスキーの「今まで言葉に出来なかったことを語ります」宣言なのです。つまり、タルコフスキーの自分語り。映像で描く「自画像」。

そう、「自画像」なんですよ。

ダ・ヴィンチの画集が出てきますね。私は長年その意味を図りかねていたのですが、ポイントはダ・ヴィンチではなく、いくつか映し出される「肖像画」の方にある気がします。これは、タルコフスキーが映像で自分の肖像を描こうとした映画なのかもしれません。

基本的な登場人物は「私、母、妻」しかいません。超シンプル。でも「私」は、「今の私」と「子供の頃(それも少年と幼児の2パターン)」に分かれます。そして「母」は、「老婆」と「妻の顔」の2パターン出てきます。さらに同じ顔をした「妻」と「母」。 これが交錯するから分かり難い。

しかし、「今の私」だけは声のみで、姿を見せないのです。

タイトルが『』なんだから、鏡くらいに映ってもよさそうなもんですが、それすらしません。よく考えてみたら、「私」の姿は「私」には見えないのです。あなただってそうでしょ?仮に自分を鏡に映したところで、それは左右逆の似て非なる物体に過ぎません。

いや、作家にとって、そんな表層的な似顔絵はどうでもいいのです。彼らが描きたい肖像(自画像)は、人としての内面なのです。「今の私」を形成する、人・物・出来事・歴史等々のあらゆる「記憶」なのです。父の詩も、唇の荒れた女の子も、母が粛清に怯えた恐怖政治さえも、アンドレイ・タルコフスキーを形成する要素なのです。それはドストエフスキー的総合小説(<村上春樹命名)にも似た壮大さ。その壮大な記憶を−単なるノスタルジックな思い出話ではなく−客観視して描くことが、彼にとっての肖像画(=この映画の狙い)だったに違いありません。

私は長年この映画を「詩」だと思っていたのですが、「絵画」だったという寝言でした。ムニャムニャ。

余談

ついでに言うなら「風」の映画。世界で唯一「風」を撮った作品と呼んでもいいと思っています。

(2021.10.31 Morc阿佐ヶ谷にて再鑑賞)

(評価:★5)

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