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[コメント] ニンゲン合格(1998/日)

黒沢清独特の笑えないコメディーと思って観ると分かり易い。一見異様な舞台はリアルの欠如ではなく、真のリアルのための空間。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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kiona氏がシェークスピア学者の言を引用しているが、この映画はまさに悲劇でもあり喜劇でもある。 え?ジャンルはdramaだって?たしかに、紛うことなきドラマではあるのだが、所謂「劇的」な物語を期待されても困るってもんだ。

後に『曖昧な未来』というタイトルの『アカルイミライ』のドキュメンタリーが作られたが、黒沢清の映画は、本作辺りからその「あいまいさ」を増していく。

黒沢清自身「父親と息子が殴り合って最後に抱き着くというような家族は、僕の実感する家族とは違う。もっと白々しいあいまいな関係じゃないか」と語っている。

釣り堀に牧場。いかにも牧歌的風景であるはずのものが、自動車がバンバン走っている街道沿いの住宅街にポツンと立つ。果てはその場が産業廃棄物置き場になる。このいい加減で異様な空間。 黙々と自己と対峙する釣りから共同作業を要する牧場、そして瓦解。この変遷がこの家族の変遷と重なっていく。

「家族ってこんな異様な空間なんじゃねーか?」黒沢清がそう言っているような気がする。

十年の空白を一瞬にして埋められる何かが家族にはある。我々はそれを「家族だから」と当たり前に受け止める。だがこの映画では、その「家族だから」という既成概念を排除し、「家族」そのものを客観的にシニカルに(温かい目で?)見つめる。家族という一つの媒体を通してニンゲンを見つめる。現実を持ち込む第三者を通じてニンゲンを見つめる。そう、この映画は描いているのではなく見つめているのだ。 だから「あいまい」であり「リアル」になっていく。

小津的家族物語の再構築、または黒澤明の『生きる』、あるいは「ドラえもんの最終回」(その場合ジャンルはSFね)等々いろんな解釈もあろう。 しかし、どんな解釈論を展開しようとも、どんなに言を尽くしてその物語(の一断片)を言語化しようとも、映像が物語る数多くの「言葉」の前には沈黙するしかない。それが映画。

個人的には、もちょっと商業的でもいいんじゃないでしょうか?とも思うのだが(ここんとこの黒沢映画には決まって同じような苦言を呈してるな)

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)じぇる[*] moot

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