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[コメント] 友だちのパパが好き(2015/日)

ゴジラ+シェークスピア。説得する言葉を持たない男どもと身体で説得する女たちが紡ぐ、ロマンスのないラブストーリー。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







3人の男が出てきます。吹越満演じる“パパ”、娘の“先生”、妻の会社の“同僚”。彼らには必ず「言い訳」の場面が用意されています。パパは離婚理由を娘に問われて、先生は別れ話を切り出されて、同僚は早漏で果てた時に。「お前の歳じゃ分からないだろうけど」「まだ若いから」「いつもはこうじゃないんだけど」ウンヌン。全く説得力のない空虚な言葉を重ねるばかりで、そこには尊敬とか信頼とかいった“絆”が生まれる余地はありません。

一方、女性たちは肉体関係をもって“絆”を作っていきます。むしろ肉体関係を断ち切ることで“絆”を断っていくのです。 (妻の乳房のクダリで、女性にとって肉体が大きな意味を持つことを明示します。ここでも男はアンジーの話なんか持ちだして、説得力のない言葉を重ねるのです)

吹越満に焦点を当ててみましょう。 彼の周囲には、石橋けい演じる妻、娘、娘の友だち、平岩紙演じる愛人という4人の女性がいるのですが、血縁である娘は別として、他の3人とパパは肉体関係があったはずです。しかし娘は家を出て彼氏とヤリまくり、妻は会社の同僚に口説き落とされ、愛人は妊娠中という理由で体を交わせない。つまり、パパと肉体関係を持たないことによって、あるいは他者と肉体関係を持つことによって、パパとの“絆”を断っていくのです。

そんな状況下で(その状況は後から明かされるのだが)“怪物”が現れます。娘の友だちは、理屈も道理も常識も通じない“怪物”、説得不能な『ゴジラ』に他なりません。 この手の話は、怪物の登場が変化をもたらすのですが、先に述べた「肉体関係とパパとの絆」は怪物の登場と関係ありません。従って、怪物が登場する前の“状況”なのです。

この話(設定)の面白い所は、「怪物が家庭を壊す」のではなく、「崩壊した家庭に怪物がやってくる」という点です。実際、彼女は映画の冒頭しか家庭に姿を現しませんし、彼女自身は直接的な危害を加えることもありません。

しかし、この特異な設定の映画は、それでもなお“ラブストーリー”なのです。 それは、最後の最後(いささかネタバレですが)、公園のクダリで種明しされます。 「あ、これ、ロミ&ジュリだったんだ」と気付いた時、特異な設定が“恋の障害”だったことにも気付かされるのです。

キャピュレットとモンタギューという“家”が障害だなんて今時通用しません。だからこの映画は早々に家庭を崩壊させます。もはや夫婦関係ですら障害ではない時代なのです。 代わりに「娘の友だち」「離婚直後」「愛人妊娠中」という障害を設定します。それは家という“不条理”かつ“物理的”な障害ではなく、“常識”や“自制”というメンタル的な(それでいてちっともロマンチックじゃない)障害なのです。 そう考えると、常識が通じない、自分にブレーキをかけない“怪物”が猪突猛進することに俄然意味が出てくるのです。いやもう、彼女を“怪物”と定義すること自体が、常識にとらわれているのかもしれません。

この映画、“怪物”自体よりも、その周辺の人々の“事情”を描写することに重きが置かれています。おそらく、そうすることが“時代”を切り取る手段だったのでしょう。その目論見が見事に成功した映画だと思います。

(15.12.20 渋谷ユーロスペースにて鑑賞)

(評価:★4)

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