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[コメント] キッチン・ストーリー(2003/ノルウェー=スウェーデン)

押し付けがましさのない不思議な味わいの映画。
狸の尻尾

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







映画って、その国の文化やカラーが如実に表れるもの…。 そんなことを改めて感じさせられたこの映画。 スウェーデンとノルウェーの合作です。

普段見る映画は英米物や邦画がほとんどなので、 こういう「異国物」を見ると本当に新鮮に感じます。

笑いの在り方や、ストーリー展開さえ独特で。 その国の文化や歴史に造詣がないと理解できない部分もあり、 人によっては、北欧に興味を持つきっかけともなりそうです。

ストーリーはなんとはないもので。 端的にいえば2人の中年・老人男性が心の交流を持つまでのお話。

あまり起伏のない映画なのですが、見ているうちに彼らの姿が とても愛おしく感じられてきます。

口から流れるラジオの音を聞くシーンや、2人だけのバースデー。 2人が心を通わせてからの場面はとても印象的。

しかし、ラストにおいて。

国境までトレーラーを動かし、契約は果たしただろうとばかりに ノルウェーへきびすを返してイザックの元へ戻ろうとするフォルケ。

大抵の映画なら、ここで2人が再開してハッピーエンドにするでしょう。

が、この映画においてはフォルケを待つ者は最早いないのです。 彼を待っていたのは、イザックの死という事実でした…。

家の前に横付けされた車。 側に立つイザックの知己、中から出てくる医者…

無言でそれらを眺め、状況を把握していく彼の姿がただ静かに流れていく。

そして場面は切り替わり、イザックの家でかつての彼のように 暮らすフォルケの姿が流れてこの映画は終わります。

幸福も不幸も声高に主張しない、本当に静かなラストでした。

「死は予定されている」 鑑賞後、劇中に何度か出てきたイザックの言葉が蘇ります。

死が予定されていたものであるならば、ラストのイザックの死は 不幸なものとは言い切れないでしょう。

むしろ、その終わりの日々においてフォルケと出会え 図らずも人生の楽しみや喜びを呼び戻せたことは幸福です。

悲劇でもなくハッピーエンドでもなく、ちょっとしたユーモアに溢れ。 押し付けがましさのない不思議な味わいの映画です。

****************追記****************

ネットで感想をみていると「イザックは生きている」と解釈している方と 自分と同じように「死」と受け止めている方とに分かれていて。

少し驚いたので、もう一度考えてみたのですが。 やっぱりイザック死んでますよね?(…身も蓋もない言い方ですが)

「場所はイザックの家」 「映されるのはフォルケの姿のみ」 「電話のベルの合図」 「2つのコーヒーカップ」

以上の提示された条件からイザックが生きていると導き出すのは、 少し無理があるかなぁ…って、やっぱり思うんです。

イザックが生きており2人で暮らしているのであれば、 電話のベルの合図の場面は省いて描けばいいわけですよね?

もしくはグラントのコーヒーカップを用意するシーンが描かれるか、 あの場に3つカップがなければいけない。

仮にイザックが生きており、グラントからの合図を聞いたフォルケが 2つしかコーヒーを用意しなかった…と解釈すると、 フォルケはかなり嫌味な行動をとっていることになりますよね。

フォルケがこのような行動をとる理由はあるでしょうか?

フォルケはトレーラーを運ばれたことには気づいていなかったし、 何か特別な感情をグラントに抱く理由となるような場面は、 この映画では描かれてはいなかった(…はず)。

一方的な嫉妬の感情を持っていたのはグラントの方だけで、 フォルケは彼のことを特別に意識したことはなかったはずです。

となると、そのような嫌味な行動を取る必要性はないですよね?

映画中にそのような条件は提示されていない、仄めかすような場面もない …ということは、そのような解釈は意図していない。

そうとらえても、間違いではないでしょう。

また、あの電話の合図の主は実はイザックだった…というのも、 フォルケのいる場所がイザックの家であることから、 かなり不自然に感じられるので、選択肢から省きます。

イザックは体調不良で2Fで寝てて、一緒に住んでるフォルケが応対。 …って線もありか?っていうのも、ちらっとは思ったんですが。 それでいて一切イザックが描かれないってのは、不自然極まりない。

上記のように考えていくと。

このラストの直前に、イザックの死と受け取られるような シーンが挟んであるのですから…。

「電話のベルの合図」を劇中で最初に説明されているとおり、 グラントからのものだ、と素直に受け取って。

イザックの死後に彼の家に住むようになったフォルケが、 新たな友人グラントのコーヒーを準備している。

と読み取る方が自然です。

フォルケがイザックの家に住んでいるのであれば 「グラントとの繋がりもまたイザックが残したものの1つ」 として解釈することも、別に不自然ではないでしょう。

加えて言うならば。

「死は予定されている」

この言葉が、暗示的に何度か出てきていることからも、 ここはイザックは死んでしまったと解釈する方が自然では?

…と思ったのですが、実際のところはどうなんでしょうね。。。。

「重要なのは、何を見せるかではなく、何を見せないか」 とは監督の言葉ですが。

「イザックの死」を伺わせる場面から、経過をすっとばして ラストに持って行ったところに監督の意図があるのだと思います。

彼が生きているのか、それとも死んだのか?

あえてはっきりとその場面がとばされているのですから、 観客はあのラストの場面でそれを読み取ろうとします。

そこで提示されたものは、何なのか。

最後の場面をイザックが生きていると仮定すると、 それは2人の友情を示していることになります。

しかし、単にイザックとフォルケの友情を示したかったのであれば、 フォルケが引き返してきたところで、2人の感動の再会シーンにして。 それをラストに持ってきてもよかったはずです。

が、そのような終わり方にはしなかった。

そうであるならば…

あの場面はイザック亡き後で。 グラントとフォルケが彼の残した繋がりの中で暮らしている様を あえてはっきりとその経緯は示さず描いている。

その情景は、より人の営みというものを際立たせて この映画の余韻を味わい深いものにしている…

そのように捉えることもできるのでは?と思いました。

(でも、本音はイザックに生きてて欲しかった…)

(評価:★4)

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