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[コメント] トンネル(2001/独)

入る店を間違えてしまった居心地の悪さ。
グラント・リー・バッファロー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







本作はあくまで「実話に基づく話」。Yasu氏のあらすじでも紹介されていた、ベルリンの壁についてのサイトや他の情報を参照する限りでは、本作は最初に掘られた「トンネル29」のエピソードをモチーフにしながらも、他に掘られたトンネルについての話も織り交ぜて物語を構築していることがわかる。

ある映画評でトンネルがジグザグに掘られたことなど、細部が詳細に描かれているということで本作を観る気になったので、正直エンターテイメント性は期待していなかった、というか社会派ドラマだと勘違いしていた。まあこれは捉え方次第かもしれないが。

ビューティフル・マインド』の拙評でも述べたが、実話に基づく話を評価することに関して、私自身は煩わしいと思っている。本作での主人公はあくまで「トンネル29」を掘った元水泳選手をモデルにしているだけで(名前も変えてあるし)、『ビューティフル・マインド』よりも実話再現性は薄い。とはいっても、私にとってはそれはどーでもいいことである。問いたいのは、実話にしろそうでないにしろ物語の世界のなかで整合性がしっかりとられているのかにつきる。

いくらあの女性メンバーを加えるためとはいえ、公共の場所で大事な計画を話している時点で既にうさんくさくなっていた。他にも、東ドイツが人間の流出をいかに恐れていたかはわかるが(労働力というだけではなく、合法に出国させれば外貨獲得の打出の小槌にもなったらしい)、国内で脱出者の家族をあれだけの人員をかけて集中的に見張るよりは、スパイを遣ってあの名の知れた主人公の元水泳選手を密かに暗殺したほうがコストかからずに済んだのではないか。(極限まで好意的に解釈するなら、一味を一網打尽にするためぎりぎりまで泳がせておいたが、スパイの予想よりも早く計画が進行したため取り逃がした、ということになるが、そのあたり描かれているわけではないので、単にわかりやすくするため切り捨てたというふうにしか受け取れない。)

こういうのも娯楽性を高めるためと言われると、ああそうですか、と応えざるをえないのだが、たとえそうだとしても酷いと思う部分がある。『シュリ』にしろそうなのだが、相手側のことなど様々な側面もちゃんと押さえていますよ的なくだりが非常に言い訳がましく映る。例えば、東ドイツの大佐の描き方、信念にしたがって行動しているというセリフを言わせれば相手方を両論併記で描いたことになるのか?一部の家族を救い出しても、他の一部の家族が東ベルリンに残されれば新たな苦悩をもたらす、登場人物の一部がそれに近いことを少しだけ言うが、そのまま置いてきぼりをくらわされる。「東」から「西」に行くことへの意味やそれぞれの価値観も、もっと問うていいのではないか。

一番苦手というか(こういう表現を使うのは好きではないが)許せないのが、マスコミが登場するくだりについて。家族を「救う」ためなんだから、作業継続のための資金を得るのに多少汚い手段を使ったっていいではないか、むしろそのほうが家族を「救う」ことへの意志の強さを感じる。なのに、あくまでマスコミは拝金主義的なものとして描かれること自体はまだしも、それが主人公達の「正義感」をひきたてるために存在させているところが本当にもうだめである。そんなことを言っておきながら、この作品自体、実話のおいしいところどりで、あとはただただ安易にハラハラドキドキさせるようなハンパな演出でごまかしているではないか。この作品の位置とあのマスコミの位置は何が違うのか。なぜ、あんな中途半端なマスコミ批判のような視点を加える必要があるのか。観客を少し見くびりすぎではないかと思う。

この監督の才気のようなものは、ポスターにもあった、壁の前ですすり泣くシーンのあとに、まるで無神経に展開されるあの情事の部分で少し感じた。娯楽作品に徹するなら、あんな持っていきかたをしたら反発をおぼえられるに違いないにもかかわらず、情事のシーンが挿入される。そのあとのバスタブのシーンと合わせて考えると、それに関しては私自身は苦手ではない、まあ好きではないのだが。そんなシーンの意外な積み重ね方を、他の場所でも観たかったような気がした。非常に期待外れであったが、そもそも私のような者が観るのがお門違いだったのだろう。その意味でも、宣伝の照準がずれていたのではないか。

*これに比べると、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の壁の描き方のほうが率直だったように感じた。

*本作で見慣れない顔が多いのは、舞台中心の役者を多く起用したからのようです。

(「「東」から「西」に行く」と書いたが、ちょっと思い当たったことがあり、追記。多少わかりにくいかもしれません。)

考えてみたら、トンネルは「西」から「東」に向かって掘っているのであった。宣伝などには「自由を手に入れたい」とあったが、本作での運動性自体は「不自由な」「東」に向かっているものなのである。(「東」から「西」に向かってトンネルを掘るのなら宣伝の言葉の意味もわかるのだが)これは正確に言うなら「自由」を手にした人たちが「不自由な」境遇にある家族を取り戻しに、「不自由な」「東」に再び突入する話である。もちろん、家族との絆を取り戻す行為は「真の」自由を手に入れるためのものと解釈できるかもしれない。しかしここでの「自由」は政治的社会的迫害から逃れる「自由」とは異なる意味での自由である。引き裂かれた家族との絆を取り戻すのは、ある意味共同体的な秩序を回復する行為に通じるものではないだろうか、極論を言うならそれは国家秩序を守ろうとした東独の立場と同じベクトルを向いているような気がする。(あくまでベクトルがという意味である、抑圧の存在や方途とか経済社会体制とかそういう次元の話ではない)壁を構築する側、その壁に風穴を開けようとする側、両者の位置は必ずしも真っ向から対立するものであるとは限らない。本作はどこまでそのことを自覚していたか。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)kazby[*] ペペロンチーノ[*]

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