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[コメント] レディバード・レディバード(1994/英)

観客の人間性と良識を反映する鏡。
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ケン・ローチは敵に回したくはない。敵に回すようなこともしたくない、その意識さえあれば権力機構も公正さを保持できるのではないか? と思わせるほど容赦を知らない冷徹な眼差し。それは彼の撮影スタイルと非常にマッチしており、あの淡々としたドキュメンタリータッチの映像は俳優の無名性と相俟ってリアリズムを補強し、時に現実世界とフィクションの世界を隔てているはずのスクリーンの存在すら感じさせずに我々観客を銀幕の彼方へと引き込んでフィクションのエキストラにしてしまう。つまり観客はスクリーンに映らない登場人物として映画に取り込まれてしまう。その手法は彼の描く権力的機構の不正や腐敗に対してはるか彼方の対岸の火事としての距離を喪失させ、観客の良心に訴えて義憤を生々しく掻き立てる。感情的な観客の支持というバックボーンは自然と形成されるはずで、それが娯楽とは程遠いケン・ローチの映画に対する(進歩的インテリ層を中心とした)根強い高評に表れている。ケン・ローチがそういった善良な観客たちの義憤というバックボーンを計算に入れて予め権力と対峙しているという意識とは全く皆無とはいえないだろう。が、彼が感情的な観客の支持というある種のデマゴゴスの地盤によって、権力を指弾するという保証を得ていたとしてもそれは事後的なものにすぎず、彼が意図したものではない。彼にはそういった計算高い老獪さのような性格とは無縁に近いとその作風からも思われる。いわば矯激な原理主義者の信念、学生運動家の教条主義的な信頼にも似た純粋さを感じる。その純粋さは自分自信の創作方針への禁欲性や潔癖さへと昇華していると思う。それが彼の映画がただ単に義憤を煽るだけの“お約束”的、“楽屋話”的な社会派作品の通俗性と一線を画している原因だ。

その自分への、自分の創作スタイルへのストイックな潔癖性は彼が母親を描く姿勢にあらわれていると思う。容赦のなさはメカニカルな官僚機構の恐ろしさを指弾することよりもむしろこの母親のダメっぷりを徹底的に描くことに費やされている。あそこまで徹底的に母親の失格のゆえんを描くより、そういった欠点短所の描写を抑えて自分と妥協し、観客の良心を信頼するというより媚び諂うような理想的とはいかなくても平均的な“母親像”を提示していれば、「官僚機構の横暴を冷徹な筆致で描いた傑作社会派映画」という玄人の高評を得て映画賞を総なめにすることは難しくなかったはずだ。平均的な母親像であるほうが理想的であるより観客の共感を得やすいことを考えると、己の創作方針とのより緩やかな妥協は更なる大衆的な支持とこの映画の輸出マーケットの拡大にも繋がっていたと思われる。ところがケン・ローチはそんな安易な道を歩まない。むしろ茨の道をわざわざ歩いているともいえる。それは彼の考えるリアリズムやあるいは映画そのものに対するこだわりでもあるのだろうが、僕は彼が観客に「考える」余地を与えているのではないか? とも思ってしまう。ハリウッド式の社会派と呼ばれる作品は観客が考える必要はあまりないのだから。製作者が提示するアッピールを映画のモデルとされた世界とはかけ離れたムーディな映画館の座席や自宅でだらりと横になったまま受け入れればいいのだから。そして不正に対して義憤を感じ“自分が腐敗した権力と対峙しうる有意義な存在になったような”錯覚にすぎないカタルシスの中に自己愛を育むのだ。ところが彼は観客にこう思わせたはずだ。「確かに福祉局の杓子定規な横暴は言語道断だ。でもあの母親にも問題がある。あの母親も悪い」と。

母親失格の母親の“悪”と福祉局の権力的な“悪”ではそもそも次元が違う問題だが、全く無関係でもない。観客は考える。「あの程度の母親の欠点は赦されるべきだ。権力の暴力的なお節介はファシズムだ」「母親失格なのは分かるけど、前例だけに基づいて子供を母親から奪うのは権力の横暴だ」「権力の横暴であるのは分かるけど、あの母親はもっと自制してこともにとって必要な母親になるべく努力すべきだ」「あの母親のもとでは子供がかわいそう。権力の判断は紋切り型で非情だけど当然の処置だ」どれが答なのだろう? 答えがないとはいわない。そうだとしたらこのような映画を作る意味はない。ただそれは観客の良心や人間性に委ねられている。母親が母親足るべく努力し、権力が公平足るべく自制するように努力すべきことを訴えているのは分かる。それと同時にケン・ローチは観客に対しても考えること努力するように促し、訴えている。「母親は確かに母親であるには欠点短所が多すぎる。でも権力が現在の状況に柔軟に対応することなく、過去の決定を振りかざして、個人の生活レベルにまで介入して人権を蹂躙するのは正しいのか?」 この映画を観た観客の感じたものこそがその観客の人間性や良識を映し出す鏡になっている。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)にくじゃが[*] kazby ボイス母[*]

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