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[コメント] ファイナル・カット(1998/英)

初めから映画と分かりきってるからこそ成り立つ擬似ドキュメンタリーであるが故に不快感を楽しむくらいの余裕がほしいものだ。
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







まず書きたいのは映画の中でドミニクとその友達(名前を失念)がコカインを強請る時に踊る変てこなダンス。『ジャングル・フィーバー』でサミュエル・L・ジャクソンが家族に金を強請る時に見せた彼の発明によるダンスと同じ。あれだけで嬉しくなってしまって、少々点が甘くなってしまったかな?

コメントを読んでるとけっこう立腹している人が多いのに驚き。しかも隠し撮りスタイルであることに反感を感じているようだ。あくまで映画の中のことであって映画的約束には反してないと思うのだが……

はっきりいって「演技していない素の人間を撮る」ための隠し撮りなんてのは嘘っぽいね。実際、「ドッキリ」みたいな仕掛けをジュード・ロウ夫妻は平気でやってるし。「演技してない素の人間」らしさを表現するための登場人物の性格付けや言動が却って、“演出”を感じさせて、盗み撮りスタイルによる不快感はある程度は減殺されるようだ。人が隠したがることなんか排泄、性的行為、悪口、反道徳的行為、犯罪と、まあ限られてるけど、それぞれを隠し撮りの名の元に強引に結び付けているような気がしないでもない。それでも楽しめるんだけどね。

隠し撮りをするロウ、その隠し撮りを観る彼の友達たち、隠し撮りを観る友達たちを撮る撮影隊、それらの一切合財を観る観客。こういった多重性は、予め観客の不快感や怒りをそらすための仕掛けじゃないのか? 撮影隊の撮った映像を観るであろう架空の観客たちは登場人物が阪神の演技で感じている不快感や怒りと薄められてはいても同質の感情を覚え、席を立つかもしれない。しかし現実の観客はその多重的な構造による位相のずれを感じることによって、登場人物たちの感情を距離を置いて客観的に楽しむことも可能なのではないか? やや興醒め気味のラストも含めて、4点にしちゃおう。

(評価:★4)

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