[コメント] ウディ・アレンの重罪と軽罪(1990/米)
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この映画が撮られたのが1990年だそうですね。
今からもう10年も前なんです。
『アニー・ホール』とか『インテリア』が作られたのが1970年代後半でしょ。
もともと都会派のウディ・アレンは、バスター・キートンの香りがしましたが、アカデミー賞を獲得して以降は敢えてその都会派的な部分とコメディの部分を融合させて、1980年代には『カメレオン・マン』のような熟成したコメディを作ります。
でも彼の作品は80年代まで、ハッピーエンデョングだったんです。
失恋したり、行き違いがあったり、色々あっても希望を持たせて終わる。それが都会派ウディ・アレンの真骨頂だったんですね。
でも90年代に入ってから10年。
彼の芸風も映画の行く先もずいぶん変化しますね。
そのきっかけとなったのがこの作品なのではないでしょうか。
この映画では“罪”について徹底的に提示し続けます。
自らが演じる世間からズレた映画監督のやることなすことが物語のバランスを崩しますね。これはもともと彼が持っている個性でもあります。 だから見る側は「またか・・・」という思いで彼を見ている。
これが映画でいうところの「軽罪」にあたります。
しかし、マーティン・ランドー演ずる眼科医の立場は、立場が多きいだけに、その行為(殺人)も「重罪」になりますね。
この映画では、この二人の物語が全く接点なく進んで行き最後の最後にマーティン・ランドーとウディ・アレンが静かに議論しあいますね。これでおしまい。
マーティン・ランドー演ずる眼科医が、不倫女性を殺そうとするロジックに至るまで、彼が育った幼いころの思い出などが蘇りますね。厳格な家庭で育った彼は、不倫女性を殺すことにどれだけの呵責を抱いているか。
しかし、いざ殺してしまえば、それを自ら正当化してしまう。
これが罪なんでしょうね。
怖い!
この変化が怖い!
ウディ・アレンはこのあたりの傾向をアメリカではなくて、最近はヨーロッパで披露しようと試みています。
イギリス三部作といわれる作品群でも、共通項は「殺人」
そして殺すことに何の違和感も呵責も抱かずに正当化する真情だけが露出する恐怖。
これは誰もが持つ潜在的な罪の軽重なのではないでしょうかね。
お話自体も面白いのですが、途中で激論交わす、正義とか罪とか許しとか、そういう宗教感のようなものが全体を覆うすごいストーリーですね。
恐れ入りました。
2011/01/06
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