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[コメント] マタンゴ(1963/日)

それなりに幸せそうだから、キノコ食べちゃってもそれはそれでいいんじゃないと思いました。けど→なぜ私はキノコを食べないのか?キノコを食べるという他者への暴力
蒼井ゆう21

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







たぶん、きのこを食べるまでの、そして人から完全なキノコになるまでの、その過程に、最大の恐怖が隠れているように思いました。たぶん完全キノコになっちゃえばへっちゃらだよ←という自分もたぶん存在していないのかもしれない(キノコ食べちゃうと)。とすると、今の自分でキノコを食べる食べない、という選択を下す、ということ自体が、何か問題を孕んでいるような気がしないでもない。

私は、キノコを食べるという選択を行うことで、私を失うのである。つまり、私を失うという選択を私が行う。しかし、厳密に言えば、私が消え去るのではなく、新たな私が生み出される。つまり、その選択を行う私と、選択後の私との連続性はないんですよ。それは責任ある行為なのか?それはいわば、他者(選択後の私)に対して、私(選択前の私)が無条件に、自分勝手に何かを行う、ということなのではないか?(しかし、キノコにはそのような自覚がありうるのか?という疑問もあるが)

私を失う恐怖が私(他者)を生み出すという無責任に変わる。しかし、その選択を行う人に果たして責任を要求することができうるのか?極限状態の中、責任能力があるといえるのか。でも、それでも、ぼくは、キノコを食べる、という選択は、この私はできえないと考える。というか、その選択自体が無効だろう。キノコを食べる、という選択を行う私と、きのこを食べた私は同じ私ではなく、他人同士なのだから。故に、私はキノコを食べない。食べれない。

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