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[コメント] 座頭市と用心棒(1970/日)

邦画界の和製ペレこと勝新太郎のイマジネーション溢れるパスから、同じく邦画界のゴールゲッター三船敏郎のシュート!抜群のコンビネーションを見せるも、個々の持ち味の輝きは否応なしに半減、相殺していた。
ジャイアント白田

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ポジションが重なり、プレーの特徴長所が似通っていたので、ユベントス(セリエA)でロベルト・バッジオとアレッサンドロ・デルピエロのコンビは機能しなかった。そしてアントニオ猪木とモハメドアリもそうであるように、キングコングとゴジラのコンビも機能しないままに映画『キングコング対ゴジラ』は、「猪木対アリ」をフラッシュバックさせる世紀の凡戦をラストにしてしまう。

その他にも数多くの天才奇才カリスマの夢の共演が失敗に終わってしまったのがあるのだが、この映画は、そのカテゴリーと逆にある成功のカテゴリーの両方に足を突っ込んでいる。確かに共存できていて、岡本喜八節も作用し、娯楽映画として成立しているのだが、如何せん魅力が半減。

言うなれば、B&Bの島田洋七とツービートのビートたけし、互いにネタ作り手で漫才のイニシアチブをとる人間を組ませたところで果たしてそこに、新しい笑いが継続して世に産み出されるかというなら、それはノーであり、破綻を来たし解散という憂き目が待ち受けていることは一目瞭然というのと同じということ。

「もし・なら」を言ってはならないのだが、もし二人が組んでいたら、横山やすし西川きよしが得意とした、お互いに時と場合に応じてボケとなり突っ込みとなる役分けを瞬時にするといった熟練が成立しなければいけなくなる。が、それは一朝一夕では無理であり、また役分けが出来るからと言っても、成功の鍵は「時間を掛けた催眠療法的に圧倒的存在感をどちらか一方が出さなければならない」問題が出てくる。だがそうした場合、目立ちたがり屋の島田北野の二人なのだから、それが遠因で解散の導火線に火を付けることに繋がる。

なのでコンビを組まないで互いに道を尊重し、結果的に舞台上で世紀の凡戦を繰り返すことなく漫才ブームは栄枯盛衰を満喫できたのだろうと思う。

で、話を戻すと、この映画の場合、真性目立ちたがり屋の二人をスクリーン上で共存したまではいいが、そこに新しい提案が出来ていたわけではなかった。そして受け手に対して贈る歳暮又は中元を、嬉しい裏切りを選択するよりも、両雄を交互にスクリーンに出ることで、勝ファンと三船ファンもしくは座頭市ファンと用心棒ファンが所持する“夢”の継続を維持しようとしたがために、歴史上避けることが出来ない“凡戦”と言う名の消化不慮となってしまった。若尾文子の存在が作品の壊滅的壊死を防ぐ効果を果たすのだが、そこにややおんぶにだっことなってしまい、結果として贅沢にも若尾効果を相殺してしまった印象が残った。

ただ、題名『座頭市と用心棒』にも見られるように、互いに認め合う好敵手同士であり続ける関係を前もって暗喩させており、凡戦と見なし続けるのは気が引ける。正直、個人的にも勝新太郎と三船敏郎が嫌いではなく好きな存在なので、凄く今まで書いていることに反省している…。

よって、ラストに座頭市と用心棒が砂金を集めてしまうシーンに全てがあったので、“凡戦”は目くらましだと解釈。作品の本質が化け物と獣の二つの代表的人間の本能が世の中を生き延び、一番人間らしく、善人であり悪人といった普遍の世の常を教条的かつ凶状的に再認識させてくれたので4点。

役者を排して見ると、内容はごくごく普通の時代劇でした。

(蛇足だが、島田洋七と北野武を千葉で初めて会わせたのが横山やすしだというのは有名)

2003/1/7

(評価:★3)

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