[コメント] 郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942/伊)
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私が観たものはテレビ放送時の125分版。このフィルムは戦時の大混乱の中紛失し、いま観られるものは1957年にどっかから見つかった断片をビスコンティ自身が編集したものだという。本物は143分あったらしい。なんかつなぎの悪いところが目に付くけど、そんなところはあまりつっこまないでおこう。
端々に後のくどさを連想させるところがないわけでもないけれど、全体的に観るとまだまだって感じ。特に女の描写。ビスコンティ映画に付き物のねちっこい女がいない。ジョバンナの描写はまだまだ甘いね。
もうずいぶん前に読んだ本だからかなりうろ覚えなのだけれど、原作にあったエピソードで強い印象が残ったところがあった。最初に彼女にキスしたときに彼女は彼に「噛んで、つよく噛んで。」と懇願し、翌朝、彼女の唇にははっきりとその傷が残っていた、とか何とかそんな感じのくだりがあった。この辺で彼女の印象が私の頭の中で固まった(んだったと思う)。起こったことは受け入れる。後先考えず、そのときのことだけを考えるような女、そんな印象をもったような気がする。そして彼女をそんな行き当たりばったり投げやりな態度にさせているものは、ハイウェイ途中の、うらぶれたちっこい町の、うざったい夫の、酒場女の生活であり、そしてそこにあるどうにもならない閉塞感からきた、これ以上の生活は自分には無理、というような苦い諦念をもった女、そこの生活を嫌と思いながらも、長い間その生活を送っていたために鬼のふんどし洗うようにそこになじんでしまった女、そんな女をイメージしていた。
この物語をビスコンティの世界に置き換えるにあったってはこのジョバンナという女がもっとも大事なポイントになったはずだと思う。ジーノの出現によって揺らぎつつもその苦い諦念に絡まれたままの女。そんな女にしては爪のお手入れにいそしんでいたり、朗々と歌っていたり、夫を使って男を引き込んだり、なんかのびのびとしすぎのような気がするんだよね。安定した生活抜け出せない自分を自覚していながらも心のどこかで自由に憧れる、ってんならどれかひとつだけを描く程度でよかったんじゃないかと思う。前半のそのへんで結構自由な女に見えちゃうのでジーノが「一緒に逃げよう」と言ったときになぜ彼女があんなに強く拒否するのかが「?」になる。保険金殺人が目的にしては、この映画のジョバンナは最後まで素直そうだし。
安定した生活に纏い付き離れない荒廃、放浪するものの持つ自由、この二つがぶつかりあったときに生まれる新しいもの(いつ妊娠を告白したんだ、と思わず禁じ手を使った)、それを自らの手で潰す(正確にはそれまでの行いにより潰されたのか?まあいいや)。 このへんは後期にも通じるビスコンティっぽい苦い諦念と絶望が見えなくもない、と言えるのかもしれないなあと思ってみたりする。
ビスコンティ曰くネオレアレズモの最初の映画ということらしい。確かにその当時イタリアの飲み込んでいたと思われるねっとりまといついて離れない貧しさをケインの小説に見いだした着眼点の良さは認める。ただ、もうちょっとジョバンナを強く描いてくれたらなあ。まあそのへんは、はじめに書いたとおりの事情があるのでよくわからない。この感想はあくまでカット済みの作品に関する話です。そのカットされた20分に彼女のなにかがあったのかなあ。それがあったのなら、ネオレアレズモの最初の作品であり、かつどこまでもビスコンティらしく噛み合わない男と女と現実と未来という異様な映画が出来上がっていたかもしれないなあ、と思うけれどそれはないものねだりというものなんだろう。
それにしてもイケイケ戦争の時代によくこんなはっきり二層に分かれてつながらないまま破滅に向かう男女を描いた作品を作ったなあ。こりゃあ、上映禁止になるだろう。
ところで、うろ覚えですいませんが確か原作にも郵便配達は影も形もなかったはず。表題の意味するところは「一度は不在かもしれなくても郵便屋さんはお手紙を必ず届けるためにもう一度訪れますよ。そして『運命』というものも同じように必ず訪れるもので逃れられはしないのですよ」、というようなお約束と解釈していたのですが…。
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