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[コメント] 世界大戦争(1961/日)

ゴジラ』で描き切れなかった「私たち」を丁寧に繊細に・・・。だからこそ、その恐怖と無念さは倍加し、日本特撮史上例を見ない秀作となる。ただ、本作に円谷英二は必要なかった。特撮パートを必要としないほど見事なドラマがある。
sawa:38

**ネタバレ注意**
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私は貝になりたい』でのフランキー堺の嗚咽が映画史の記録に残る名演技ならば本作のフランキー堺の「原爆でも水爆でも来てみろ!俺達の幸せに・・・」という叫び声は日本人の記憶を揺さぶる名台詞ではないか。

その時彼はまさしく世界の中心にいた。世界の情勢やら避難でごった返す街なんかとは無縁に、彼は自らの家族全員で静かにミサイル着弾のその時を待っていた。あの家は戦後の一文無しから働いて働いてやっと建てた彼の「城」だった。彼はその城で家族だけの最後の晩餐をする。

もしも実際に私がそういう状況になったならば、私も迷わず彼と同じ行動をするだろう。世界の難しい事なんか解らない。何か出来る事も無い、何かしたい事も無い。ただひたすら願うのは、最後の一瞬までも家族全員が手を繋いで一緒にいられる事だけを望むだろう。立派な家ではないが、私にとってはこの家が世界の中心、そして家族だけが世界のすべて・・・

・・こんなんじゃ私はとてもヒーローなんかには成り得ない。だけども庶民にとってそれが現実。世界を救うヒーローなんて夢物語。現実はただただ、ゴジラやミサイルといった災いに身を委ね、ひたすら殺されていくのを待つだけだ。

ゴジラ』ではそんな庶民の姿はあまり描写されなかった。もちろん数少ない描写でも言葉多く伝わるものがあったのも事実ではあったが、それを本作ではフランキー堺という軸をしっかりと定めて描写した。だからコレは「私達の等身大」の映画となったのである。だから恐ろしいし、無念なのである。

鑑賞前、私は本作を「特撮物」として認識していた。事実、円谷英二のパートは多く、「特撮映画」の一本であるに間違いはない。しかし、この重厚な脚本とフランキー堺笠智衆乙羽信子といった役者陣を振り返り、もしも特撮のパートをすべて外した作品に仕上げたらどうだったのだろうと考えた。『大怪獣東京に現る』ではないが、一般庶民の単一の視線にだけ頼ったリアルな視線。これこそまさに「世界の難しい事なんか解らない」という庶民の不安と恐怖感をより深く表現するドラマに成り得たのではなかろうか。

前線のミサイル指揮所、日本の政府、そして庶民たち、という3本の物語で俯瞰的にストーリーを進行させずとも、フランキー堺の一家だけの視線からの世界の終末。まったく自分たちが関与する事が出来ない中で「幸せを蹂躙され」「死を迎える」のだ。その恐怖や無念さは如何なものか。

日本の宝こと円谷英二に対して失礼とは思うが、本作においてチャチな特撮は必要なかったと思う。それほどドラマ部分がしっかり「叫んで」いたと思うのである。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)すやすや[*]

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