[コメント] シックス・センス(1999/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
■序■
幽霊ではなく、生き霊として描いた方が、良かったのではないか。 最初そう思った。
であれば、自分の生き様を見出せない、自分の無い多くの視聴者への 後押しとして映画の存在を評価できる。 自分の中だけの都合のよい解釈、現実の見たい部分だけを見る自分、 それら取捨選択をしている思考の存在に気付き、自らの現実を改めて問い直す。 死者である主人公が、死んでいる事実に気付き昇天するように。 視聴者も新しい現実を見いだせるかもしれない…と。
現実の直視、それによって霊から生者へ蘇ることが出来る。 「生き霊」であったらば、そういうメッセージになり得るのではないかと。
■1■ 非現実からの回帰としてみる映画。
死んでいる事実に気づくというストーリー。
虚実:生きているつもり/現実:自分は幽霊
この逆転。主人公に自己投影して観る視聴の本道からして裏がえっている。
映画を観ている我々は、現実に生きている。しかし、ここでふと思い当たる。 映画を観ている間、一時現実の自分を忘れるという意味では、観ている間は 「何処の誰ベエ」という(←慣用句だよね?)視聴者の人格は一旦保留されている …極論すると、死んでいる…とも言える。
映画を見ている貴方は死んでいる。この視点で改めて映画の現実を見てる。
虚実の世界がコール少年の実在するスクリーンの中。展開する物語。 それを見てどうこう思う視聴者は、現に生きてはいるが、物語には干渉できない。 物語の中の死者に等しい存在。映画が視聴者をいくら脅しても、実害を与えられないのと 同等に。
そして、視聴者は「自己」が死んでいることに気づかない。
■2■ 物語の中の現実。現実の中の物語。
ここを押さえないで視ている者は、映画を異なる世界の事実、 ある意味ノンフィクションや、ニュースとの関係に等しい位置に置いているのだ …と、私は思う。 だから、このような視聴者は、視聴者と映画との関係を築く装置を、 話の粗として見出してしまう。つじつまの合わない矛盾として。 受け入れざる虚実として排除しようと思考が働く。 それは、極めて健全な思考回路だと、やっぱり思う。 現実に起こり得るトリックとしての解釈を求める。つじつまの合わない物を評価しない。
しかし、この映画の場合は、少々異なる。幽霊の存在を認めてしまったうえで、 何の辻褄合わせだ。推理小説やSFとは根本的に異なる。 この映画で、辻褄合わせに評価の総てを被せて論じるのは、奇怪な不思議グッズを 駆使する『名探偵コナン』を現実にあり得るかと問うような物だ。と感じる。
■3■ 死者として映画に参加する者、生者として映画に参加する者。
現実の自分を否定して、不満足な感情を常に生きている者。これは、映画の中の死者の存在に近い。現実の曲解、常識との乖離。世界の二重性の実感。此処にいて此処にいない感覚。
そして、現代は幽霊の跋扈する世界だと言える。 生きてはいない他者が、常に身の回りに常に居る状態にある。 というのは、見ず知らずの他人。常識を共有せず、意志の疎通も困難で、というよりむしろ その相手・他者個人個人が意志を持つとも思っていない。自分の中で生きてはいない他者。それは、個人に於いて死者と大差ない存在。 いわゆる村の、目に触れる者がすべてが成員。常識を共有し、成員間では誰の行動も ある程度読める。そんな状態で満たされている。その感覚。 誰もが自分の中で、まさに生きている。…そんな状態と対比して。
ちなみに、世間で共有されている常識が、科学的事実に反することは多い。 無理が通り道理が引っ込む。白でも黒になる。故に現実回帰も難しい。
■4■ 成長物語として観れるか?
「問題を抱える者が、納得の行く解決を迎える課程」を見ることなどでは、 人は真に癒されはしない。 個人個人の現実は異なる。問題解決の方法も方向性も全て異なる。 視聴者一個人の問題解決の後押しをする事は映画には出来はしない。 万能薬にはなり得ない。
視聴者が、死者である主人公が、一人の子供を救ってやることが出来ないのと 同じように。
この構図を読みとれば、十分。この映画はそれをこそ説いている。そう私は解釈する。 読みとれない者は、読みとらない者は、まだ死んではいない。きっと生きている。 映画への参加する立場が異なっている。それはそれでよい。
事実に気づき、死者は消えるのみと悟る。映画は終わる。それ以上語る必要はない。
■結■
やはり生き霊ではなく、死者の霊、幽霊でなければならなかった。
■追記■ 子供の視点。
コール少年の霊感とは、常識では無視するに足る他人の感情をも感じ取ってしまう才能。 共感力。助けたいけど助ける力もなく、教える事には「危険」が伴う。
本音と立前を使い分ける大人。本音は隠され、また隠しているつもりになっている大人。 見え隠れしているのに…。 子供は、大人の権力に屈している状態では、本音を存在しない物として、 大人と相対する事を選ばざるを得ない。これは、幽霊を見ているに等しい状態。
あるのに無いことにしなければならないこと。無いことになっている物を見ること。
事実を語れば、非難が帰ってくる。ただ「幽霊」に怯えるだけの子供。 図星を刺さないようにビクビクしながら大人とつきあう子供。 ここではそんな状況での処世術が示されている。
言説は不用。物証だけを黙って示そう。
事実を語るな、自分の感情だけ伝えよう。…と。
異なる視点から二重に観覧に耐える構成にも成っている。 語らずとも伝わる事はある。信頼しあう事は出来る。 そんな展開(パクリだそうだが、私は知らない)が、丁寧に描かれている。
■追記2■ 「重大な秘密が…」
「重大な秘密が…」というキャッチは大成功だったのだろう。 一つに、視聴者の視聴態度を適正に分けたように見受けられる。 また、よい煤払いになった。深刻ではない大多数の視聴者を、その反応で仕分けた。 落ちが予測できたかどうかだけで、一喜一憂していられる幸せな人が、私には ある意味うらやましい。
上記の事をべらべら語っている私は、この作品の教訓を全く実践していない。 以上のことは判る人同士で、安易な一言で分かち合えば、それでよいのだ。 あえて解説するこの行為こそが、十二分に死者の妄言そのもの。無為な干渉願望。
■蛇足■
登場人物の実在を問う意味で『海の上のピアニスト』と共通する。
作品ジャンルがスライドする展開が『スリーピー・ホロウ』(探偵推理物→ホラー→ファンタジー)と類似する。
…時代性だろうか。
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