コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ガンモ(1997/米)

実写版「ぼくんち」。どこにでもある光景だからこそ泣けてしょうがない。
tredair

舞台はアメリカ中西部、オハイオ州ジーニア。数年前に竜巻被害にあって以来さびれてゆくばかりの小さな田舎町。主人公のソロモンとタムラーは、この町に暮らす少年。退屈しのぎと小遣い稼ぎをかねた猫狩りやあてもない徘徊といった、ひたすら無為な毎日を過ごしている。

竜巻に襲われたこの町と町の人々は、今でもその時の暴力的な暗さから逃れられずにいる。破壊されたままの家屋。明るい兆しなど全く見えない経済状況。人々は喪失感や無気力に支配されるまま、誰もが同じような暗闇の中で暮らしている。そして、そのような状況にある人々が "一般的モラル" などに敬意を払うわけもなく、「あたりまえのように幸福と目される状況で暮らしている人々」からすれば、目をそむけたくなるような貧困や暴力、差別、不衛生こそを日常とし、「生きて生活して」いる。

この映画のすべては、たぶんその "グロテスクさの日常性" にこそあるのだと思う。彼らは確かに暗闇の中にいるのかもしれないけれど、だからと言ってその現状をあえて(そうではない世界の人々に向かって)訴えはしないし、彼ら自身も涙を誘うような特別なカリカチュアライズはされていない。なぜなら、その "反モラル的な事象" は彼らにとっての "日常" でしかないからだ。つまりその延長線上にあるものは、その光景は、実は誰にとっても "非日常" ではなく、いつ自分にあてはまったとしてもおかしくはないものだからだ。

"町の人々=特別な可哀想な人々" として描かなかった(と言うよりも端からそんなことを考えちゃいなかっただろう)監督の清々しい視点に、私は深く感動する。自分が高みにたったうえでの "優しさ" や "温かさ" ではないところに、ハンマーで頭をなぐられたような衝撃を覚える。 西原の「ぼくんち」を初めて読んだときのような、The ピーズを初めて聴いたときのような。

なお、このリアルな映画にははっきりとした物語はなく、小さなエピソードや存在・行為そのものが次々と数種類のメディア(8ミリ、ポラロイド、ビデオ等)を利用して淡々とコラージュされてゆく。

「誰もが物語の主人公となれるような波瀾万丈な人生を送っているわけではないだろうし、しかもそのすべてに確実な起承転結があるわけではない。」 「この映画の主人公である少年少女たちの "日常" はまだまだ続いてゆくのだから、そこに特別な物語や確固とした(わざとらしい)キャラクター付けなどは必要ない。」

切れ切れの、一見稚拙ともとらえられてしまいそうな映像のあいだからは、監督のそういった声が聞こえてくるような気さえする。それは、常に劇的な人生やヒーロー像を求めるハリウッドへの単なるアンチテーゼなのかもしれない。もしくは、単に話を組み立てきれなかっただけなのかもしれない。けれども、個人的には、彼らに「起」そしてゆるやかな「承」のみをたくしたのではないかと思いたい。

ところで、この映画は上記のコラージュのような手法と印象的な音楽ゆえに "MTV的な映画" とも評されているようだが、瞬間映像のハッとする美しさ、山場なきシークエンスの素晴らしさは、どちらかと言うと古典的な組み写真の手法ではないだろうか。スライド映写とでも言えばよいのか。真にMTV的な映画と一緒にされてしまってはあまりに不憫な気も。

つーか、マスコミにはピンクバニー坊やの見てくれが全てなんだよな、きっと。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (5 人)tomcot[*] は津美[*] [*] ミレイ[*] デンドロカカリヤ[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。