[コメント] ニュールンベルグ裁判(1961/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ヒトラーが悪いのはまちがいない。しかし彼を台等させたのはドイツ国民ではないか?その土壌を作ったものは先の大戦(第一次世界大戦)でのドイツ敗戦による極度のインフレ、敗戦による多額の賠償義務という時代背景そのものも悪だったのか?
三国同盟のイタリア、日本は?ヒトラーを操ったとされるゲッペルスや突撃隊の狂信者、元々ユダヤ人を差別していた党員などは同罪としてアイヒマン他、従わなければおそらく殺されていたかもしれない他の党員達は?
「私だったら反対していた」という人がいる。しかし自分がもしアーリア人の立場ならば反対していたなどという人は実に詭弁でありウソ臭い綺麗事だ。それは全く時代背景を無視した考えであり、真剣にその時の状況を全く考えていない人としか思えない。
アメリカへ亡命してならまだしもドイツに留まったまま反対なんて出来るのか?「死」を目の前にしていったいどれだけの人が自分の死をかえりみずに例えばオスカー・シンドラー様に人を救える事が出来るのだろうか?
見て見ぬフリをすれば助かるのに・・・助けたとしたら、自分の命だけではなく、家族の命も危険にさらされるのにおそらく正義感に燃えたとしても「家族まで危険にさらす事はできない」という理由をつけて必要に迫られれば収容所のガス室のボタンを押していたのではないか?
ナチスドイツの事となると私自身「自分がユダヤ人だったら」という想定で物事を見ることが常であった、しかしアーリア人だったら?との自問自答をして見ると正直自分がわからない。
正義感は強い方だとは思うが「家族の危険に晒してまで」いやそれ以前に「自分ひとり命を賭けてががんばってユダヤ人をいったい何人助け出す事ができる?それより遥か多くのユダヤ人が殺されるというのに」
又は「今は戦争中だ。人の事よりまず自分が生き残る事を優先に考えねばならない」などと思ったんではないだろうか?
「戦争」これは「愛」とは対極にある永遠のテーマである。私がどうこうこうだという結論を出すことなど出来ないかもしれない。
「戦争なんてするべき事じゃない」そんなのは子供だってわかっている。じゃあなぜなくならないの?
私自身はこう思っている「人が人である以上戦争はなくならない」
理由は人間には「欲」があるから、出世欲であったり独占欲など「他人より優れていたい」、「いい家に住みたい」、「あの服欲しい」など人としての当たり前の感情である。
またもうひとつの理由としてあなたの恋人や奥さん、自分の子供や親、友人が目の前で殺されて平気ですか?その殺した相手を憎みませんか?法律が無くその相手を自由にしてよい状況ならばその相手を殺しませんか?「罪を憎んで人を憎まず」なんて青年君子を吐ける人間がいったい何人いるのでしょう?
それが戦争の元ではないだろうか?
つまりこうです。国どうしの欲(昔からの植民地政策であったり今で言うと石油の件)を理由にもっともらしい理由をつけて戦争をしかける。(指導者は国民を騙して又は論点のすり替えなどして)仕掛けられた方は(あるいは仕掛けた方も、)犠牲者が出て相手国(時には相手宗教)を心の底から憎み始める...何人かの青年君子達(ガンジーさんなど)は時代の中で一時期そういう流れを止めれる事が出来るのかもしれない
しかし圧倒的多数の愚かな(いや普通の)人の前では人類が始まった時からのこの大きな流れは止める事が出来ない。故に戦争はなくならない。
次、何かの間違いがあれば人類は滅びる事となります。そう遠くない将来それが現実になるであろうと予言しときます。
そんなの全っ然望んでいないし外れてくれる事を望む。でも楽観的な考えでは回避できないだろう、欲望を捨てて、自分の周りの人間が(戦争で)殺されても「罪を憎んで人を憎まず」の精神でいるなんて相当の覚悟が必要だろうし。
(断っておきますが私自身変な宗教とか入ってません無宗教です。それに普通に欲はありますよ。)
「彼らに責任はないというその理由を説明してくれ、それも入念に」 と言うセリフがあるがその通り、彼らには責任が明らかにある。
それはもし私達も同じ立場ならば同じ判決を下されても当然だという覚悟にも聞こえた。
ヤニングに判決を言い渡す時一瞬ためらうのが印象に残っている。
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