[コメント] 日本暴力団 組長(1969/日)
1969年といえば未だ京都撮影所の任侠映画が全盛の頃である。だが新しい時代の息吹は同じ東映の東京撮影所から起ころうとしていた。
深作欣二はこの時期、任侠映画のトップスターである鶴田浩二と組まされて『顔役』『解散式』『博徒解散式』と立て続けに撮らされていた。そして本作が鶴田との最後の作品になる。深作欣二は、任侠映画で形作られた鶴田の芝居のスタイルが深作流に崩せない事に苛立ちを覚えていたという。
本作は任侠映画からヤクザ映画へと「流れ」が変わりつつある過渡期の混沌が如実に感じられる一品である。冒頭の過去の事件をドキュメンタリータッチで描き、カメラは後の『仁義なき戦い』ほどではないが役者と一緒に走り、振り回されている。はっきりと後の深作流が試されているのが分かる。
ストーリーは従来の任侠映画そのままの定型でお決まりのパターンを踏襲していく、そんな中で大スター鶴田浩二は相も変らぬ沈着冷静な芝居を披露し、深作のスピード感ある演出の中で独り違和感を覚えさせる。着流しではなく、背広を着せられている鶴田が可哀想ですらある。
任侠映画とはすなわち「様式美」である。それはストーリーであり、役者の芝居でもそうである。そしてそれを意図的に破壊しにかかったのが「実録路線」であった。後にその「実録路線」の旗手となる深作欣二にとって「様式美」は敵対すべきモノだったろう。そしてその代表格である鶴田浩二という存在は既に「見切り」をつけるべきものとなったと推測される。
深作欣二はこの作品でカメラを振り回し、もっと振り回しても「いい」んじゃないかと確信したはずだ。ドキュメンタリー風な表現も覚えた。そしてチョイ役だったが菅原文太という俳優も知った。
『仁義なき戦い』まであと4年のことである。
PS,この年の彼の作品を列挙すると私は混乱する。上記のように格好つけたレビューで彼を理解したかのようなモノを書いたのだが、実はますます彼を理解出来ていないことに驚くのである・・・
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