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[コメント] ウディ・アレンの重罪と軽罪(1990/米)

淀長さん曰く「アメリカ最後の哲学者」ウディ・アレン。アレンと一緒に私も悩む。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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私がダークサイドに堕ちそうになった時に偶然観て、海より深く思い悩むきっかけとなった映画。 再度観た時に5点を維持しているかは保証の限りではない。

「対立概念」について書かれたエピキュリアンさんのコメントに感心し、一つ気付いたことがある。 ウディ・アレンの映画は「境界線」を超える話が多いような気がする。特にこの頃、哲学しちゃってる時期だけにその傾向がストレートで顕著だが、『カイロの紫のバラ』では虚構と現実の境界を、前作『私の中のもうひとりの私』では「貴女」と「私」の境界を超えている。

そこで思い悩むのは、では「私」とはなんぞや、という事だ。私の信じるもの、私の行動の基盤、私の思考、それらあらゆる「私」を存在させる全てが「曖昧」なものであり、紙一重の差で正反対の側に堕ちる危険を孕んだあやふやなものにすぎないのではなかろうか。いや、もう、何を書いているのだか分からないが、この曖昧さこそ「人間」なのだろう。だがそれを受け入れるには、今の私の精神状態ではとてもとても・・・。

余談だが、私の記憶に間違いが無ければ、この数年後にミア・ファローと泥沼の別れ話が始まる。その決着がついた後の作品は開き直ったかの如く明るくハッピーになっていく事を考えれば、この哲学している時期は既に「怪しい」ことになっていたのだろうと推測される。 ウディ・アレンほど、私生活を語らないのに私生活を知られている作家も珍しい。

(評価:★5)

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