[コメント] 祇園囃子(1953/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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終わり近く。仕事が来なくなった美代春が、一人三味線を弾く場面が心に残った。 仕事が来なくなり、何もすることがない。その辛さを表す場面だが、そんなときに 彼女は三味線を弾くしかないのである。別段芸を磨くためではないだろう。 ただそうしざるを得ないのが、芸妓なのである。
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同じく後半。美代春が神崎のもとに行く場面。廊下を渡って離れへと赴く場面の ギョッとするような美しさ。(こういう所は宮川一夫の独擅場だ。) この美しさは、人との絆を大事にする、という彼女の信念からくる美しさだ。 そうこの映画の彼女は美しい。しかしそれは、男性に媚びる美しさでは 決してない。
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最後の場面。決然と歩む二人の背後では祇園囃子が流れ続ける。 祇園祭は貞観11年(869)、疫病蔓延を鎮めるのに行われた御霊会にはじまる。 疫病という災厄に立ち向かった京都の民衆の力が現れている祭りだ。 二人もまた決然と歩んでいく。かつて数多くのひとがそうしたように。 音は、それだけで二人の姿に時代をこえる力を与えてくれる。 またこの場面では、祇園の家々の、簾、犬矢来、駒寄せ、結界格子、 千本格子、切子格子といった造作が美しい。 この映画では通り庭、ろーじなど京都の町家の魅力が最大限に示されている。 これもまた、彼女たちを彩っている。
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『祇園の姉妹』では、姉妹の生き方の違い、というのが鮮明にでていた。 ところがこの映画では、アプレとかアヴァンとかいうわりには、二人の 違いはさほど中心ではないように思われる。 栄子は本当に現代的なのだろうか? むしろ二人は同じものを求めている と考えることさえできる。
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最後になるが、若尾文子はほんとうにかわいかった。
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