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[コメント] 司祭(1994/英)

現状のカソリックのシステムに対する問題提起という事だけでも意義深い作品。日本で宗教の議論は日常会話レベルで「臭いものに蓋」状態なのに。宗教を題材にした先に待っている人間の根源的な寛容への洞察が感動的。宗教映画としてまさしく成功でしょう。
新人王赤星

**ネタバレ注意**
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「私は無宗教」。日本で宗教に話題が及ぶと多くの人がまずこう断る傾向がある。宗教団体による積極的な勧誘活動や、カルトの活動への嫌悪感から、宗教にはまってる=危ない人という偏見が一つにあるだろう。また、積極的な信者が日本ではマイノリティであることから、異端である事を何よりも嫌う日本人の特性が出てるのだろう。「私は無宗教です」というのは私も同じくマジョリティですよ、という宣言でもある。

しかし、実態はもちろん違う。日本の主要宗教団体が届けた信者数を統計すれば、日本人で何らかの宗教に入信している人数は日本の人口を超えている(笑)。まあ、この眉唾の数字は放っておくとして、ほとんどの日本人は葬式を挙げているし墓を持っている。檀家である。また、戒名を持っている。あるものは水子供養さえしている。

悪名高い葬式坊主達が病院や葬儀屋と結託して葬式の為の葬式を挙げ、不動産屋と提携して霊園を経営する。人々は日常生活において宗教への問いも、哲学も、信心もなく、節目での儀式においてのみ宗教を利用する。それが世間の慣例だからである。葬式坊主はそれを百も承知で商売の為の儀式をするのだ。これが一般的な日本の宗教のありかた。

人類にとって宗教は倫理観を強くもたらしたとてつもなく大きい存在だ。外国のように日常レベルに存在するのが自然だし、もっとオープンに議論にすべきだ。誰でも気軽に参加し問題提起すべきだ。「臭いものに蓋」状態だから宗教の活動の多くは公にならないし、それによって純粋な宗教活動とは思えない行為が公然となされている状態なのだ。

この作品は現在進行形で抱えてるカソリックへの問題提起をしている。これだけでも意義深い。基本は保守的な規律への批判だろう。カソリック信者が多数いるヨーロッパのイギリスでこのような作品を作る姿勢は大事だ。

しかし、この映画はカソリック議論を超えたところに感動がある。規律の為に少女を救えなかった司祭が、今度は規律の為に自分が罪人となる。誰よりも規律を遵守していた司祭がその規律に縛られた罪人になってしまったのだ。そして彼に赦しを与えたのは最も苦しんだ、そして彼が苦しめた少女。規律に苦しめられた二人が規律を超えて癒される。司祭は宗教の規律や議論を超えた人間同士の心の触れ合いにより赦しをもらい魂が救われる。この場面はまさしく神々しく、そして人間的で感動だ。普遍的で根源的な寛容性、これこそが全宗教の最初の部分であるはず。相手を受け入れる心、排除されようとする者を受け入れる心、罪人を受け入れる心、憎むべき相手を赦す心。。まさしく宗教的テーマだが宗教を越えて人間として救いや愛について考えさせられる。宗教映画として大成功だろう。

(評価:★4)

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