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[コメント] 劇場版 ポケットモンスター アドバンスジェネレーション ミュウと波導の勇者ルカリオ(2005/日)

グスコーブドリに仕えた侍の物語
てれぐのしす

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







まずこの映画の主人公は、サトシとピカチュウではなく、ルカリオである。そしてサトシとピカチュウの関係が「友情」であるならばルカリオとアーロンのそれは間違いなく「主従」であり対等な関係ではない。これを子供の映画で表現するのは難しい。ただでさえ平等平等の子供の世界で、主従と言ったら「ジャイアンとスネ男」的なものしか受け入れられないからだ。

実際ルカリオは、大戦の混乱にあって、何の説明もなく封印されてしまい数百年の永きに渡り問いを続けて来た。「アーロン様…なぜですか」。そして現代の(勇者を暗示させる)サトシによって偶然封印から解放されるも、慕った主人に数百年もの間幽閉されたルカリオの心は、裏切られた悲しみからくる不信感、そして「人間と対等な関係」をポケモンが築くことが理解できない。

ルカリオは侍なのだ。己を知る主人のために死ぬことこそが存在理由であり、また矜持でもあった。しかし、アーロンに捨てられたことにより、アイデンティティと「死に場所」を失ったのだ。はなればなれになったピカチュウを探しに行くサトシに同行することは、そんなルカリオの「自分探し」の旅であった。だからこそ「始まりの樹」の中で 次々と襲い掛かる危機に対して身を挺してルカリオはサトシを守る。

「始まりの樹」の内部で迎える大詰め。ルカリオは、時間の花によって主人アーロンの 真意、高貴なる者の義務としての自己犠牲の精神とその最期を始めて目の当たりにする。数百年の間、何万回も問い続けた答えがそこにあったのだ。氷のように凍てついたルカリオの魂は、氷のように溶けていく。その暖かくも切なく迸る感情。自分は見捨てられたのではない。愛されたがゆえに「蟄居」を命じられていたのだ。 もはやルカリオに迷いなどあるわけもなく、アーロンの意志を継ぎ殉死を選ぶ。奇しくも主人と同じ力でもって。

「波動は我にあり!」

支配する者と使役する者の深い愛情がそこにあった。アーロンは高貴なる者の義務としての自己犠牲、そしてルカリオは仕える者としての矜持でお互いを深く深く愛していた。友情とは別の、しかし尊く美しい絆は決して色あせることなく、ルカリオは孤独から解放され主人アーロンの元へ旅立つことができたのだ。

ポケモンの映画は分離したドレッシングである。そのうわずみにはお子様向けの薄味の油があるのだが、沈殿したメッセージはいつも重く、そしてときに暗い。「模造された命の葛藤」「母性に敗れる父性」「命の死」ときて、(ここ2年ほど観てなかったが)今回は「自己犠牲と主従の絆」と来たか。ただ難解にするだけなら簡単だ。近年の製作者なんて、「幼稚な大人」が自分が楽しいアニメを作っているだけなのだから。「子供の目線を持つ大人」でないと、こう言う映画を作ることはできない。

ただなあ…ミュウは余計だとは確かに思う。まあ色々大人の事情もあるんだろうな。

(評価:★4)

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