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[あらすじ] ダスト・トゥ・グローリー(2005/米)

メキシコ最西端のバハ・カリフォルニア半島で行われる世界一過酷なオフロードレース“バハ1000”を追った感動のドキュメンタリー。 ◆参加資格は一切無し。たった1人で1000マイルに挑む熱血ライダー、リベンジに燃えるプロライダー、元CART王者、元F1世界王者、親子3代でバハに挑むレース一家、女性だけのチーム等々、世界中から集まった熱き挑戦者達が、サボテン見守る未整備の砂漠を不眠不休でひた走る。 ◆監督は『ステップ・イントゥ・リキッド』のダナ・ブラウン。97min
Pino☆

★ バハ1000とは?

 1962年、当時”スクランブラー”と呼ばれたオフロードバイクCL72をアメリカで売り出すことになったアメリカンホンダのディーラーが、その性能と耐久性をアピールするプロモーション活動として、ビル・ロバートソンjr.デイブ・イーキンスの2人に2台のバイクを託し、メキシコのティファナからラパスまでのラフロード約1000マイル(1600km)を走破するバハ・カリフォルニア半島スピード縦断記録に挑戦することにした。当時のバハ・カリフォルニアは、マトモな地図さえなく、舗装路も全行程の僅かに100km程度の厳しい条件。彼らの記録は、ティファナとラパスの郵便局で受け取った時刻入りの消印で証明するというもの。途中、道に迷ったり、夜霧に足止めされたりと、苦難を乗り越え デイブは40時間を僅かに切る時間でラパスに辿り着く。エンジントラブルで遅れたビルも、その2時間後には走り抜き、“ニューモデルのプロモーション”という枠を超えた強烈なインパクトを世間に与えた。

 その後、名誉のため、チームのため、そしてバハのラフロードを走り抜ける最高のドライビングプレジャーを味わうために、多くのレコードブレーカーが挑戦を繰り返した。毎年のように記録は更新され、新しいルートや方法での挑戦もあり、記録も多岐に渡った。その中の1人、エドウィン・パールマンはこの半島縦断記録をレースとして組織化し、1968年にメキシカン1000ラリーという名前でレースをスタートさせることにした。これが”バハ1000”の起源である。以来、毎年行われ、”バハ1000”は世界最高峰のオフロードレースの1つとなっている。

 現在は、毎年11月に、北米西海岸を中心に開催されているSCORE INTERNATIONALシリーズの最終戦として開催されている。バハは通常のラリーレイドとは違い、1000マイルのオフロードを 「一番最初にゴールした者が優勝」という単純明快なレースである(ラリーというより、スプリントレースに近い)。それ故、ゴールするまでは、夜中だろうが、何だろうが、常に走り続けなければならない。

 参加資格は一切無し。マシンは2輪、4輪、ATV(バギー)など、プロクラスからアマチュアクラスまで設けられ、プロクラスだけでも26のカテゴリが存在する。参加チームは、メーカー系のワークスチーム、家族参加のチーム、女性チーム、ハンドメイドのバギーや古いVWビートルで参加する同好会的チームなど、参加方法は様々。全員が、1000マイル先のゴールを目指して、昼夜を問わず不眠不休でひらすら走り続ける。コースの大半は未整備の砂漠。それも、細かな微砂が堆積した場所もあれば、ゴツゴツした岩場、舗装路、海岸沿いの砂浜など、地形も様々。その為、バハは、ドライバー(ライダー)、マシン、タイヤ、サポート・クルーなど、一切のごまかしが効かず、全てに強靱なタフさが要求される。言わば、サバイバルレースである。

 今では、バハに参加するために1年間働いているという人もおり、”バハ1000”は、オフロードレースを愛し、バハを愛する老若男女が、1年に1度集まる祭典ともなっている。

 バハの特徴として、限定区間を除けば、コース選択は自由というルールがある。つまり、A点からB点まで行くのにどこを通っても構わない。従って、コースの選択によっては、大逆転のチャンスも起き得るわけである(こんなレースはバハ以外には見あたらない)。しかし、それ故、カメラで捕捉するのは難しく、これまで(TV中継などで)“誰も全貌を見たことがないレース”とされていた。

 本作『ダスト・トゥ・グローリー』は、そんな状況を打破した正に画期的なレース・ドキュメンタリー映画なのである。

(評価:★5)

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このあらすじを気に入った人達 (3 人)KEI TOMIMORI リア

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