コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ALWAYS 三丁目の夕日(2005/日)

この時代を踏み台にして今の我々が存在している……はずなのだが、その割に現代日本はそれに対する敬意が足りなさ過ぎやしないか?
荒馬大介

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 ……フト思うのだが、いずれはあの三丁目の街並も、再開発かなんかで消え失せてしまう運命にあるのではないか。そうなってしまえば、鈴木オートも駄菓子屋も何もかも“無かったこと”に成り果ててしまう。だがこれは何も三丁目に限らず、例えば自分が今住んでいるところは元々なんだったのか、ということを考えてみて欲しい。もしも宅地が田畑だったとしたら、そこを生業としていた農家の人達はどこへ? 雑木林だとしたら、そこを遊び場にしていた子供達は、動物達はどこへ行ったのだ?

 そうだ、今どこにでもある街並の裏では別の何かが無くなっている。その無くなったモノを踏み台にして現代が成立しているはずなのだが、その割にはそんなモノに対する敬意が余りなされていないのが現状だ。これは何とも恥ずかしい。無くしてきたモノ、捨ててきたモノをまた取り戻そうとしたって、もう帰っては来ない。時代をさかのぼることも出来はしない。本作を鑑賞して、ただ郷愁に浸るだけでは意味が無い(ただし浸ることは一切否定しません)。ならば、今我々が出来ることは何だろうか?

 個人的な提案として「モノへの思い入れ」を、少しだけでもいいから考え直してみる、というのはどうだろう。「モノの豊かさよりも心の豊かさ」――一歩間違えば貧乏の言い訳に聴こえてしまいそうなこの言葉の真意は、“モノに心を込めよ”という教えだったのだ。「モノ」に心が込められているからこそ、中身の無い指輪入れや安い万年筆を最高級の贈り物に変えることも出来る。これを“金が掛かってないから心も篭ってない”等と揶揄する人間は表へ出ろ! ……まあ、俺が茶川先生みたくなるのは目に見えてるがね(笑)。

 その茶川先生と淳之介の最後のやりとり。あれだけ悲しい別れをしておいて、ラストでは淳之介が先生のところに戻ってくる。あれ、このまま涙、涙で終わるんじゃなかったの? と本編中唯一ここだけは拍子抜けしてしまったのだが、この展開は西岸良平の原作通りだったと後になって判明した。映画では説明されてないが、実は血液検査の結果あの父親と淳之介には血の繋がりが無いことが判明し、結局先生と一緒の生活がまた始まるというオチだったのだ。まあそこまで説明するとクドくなってしまうから、あんな風になったのでしょうね。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (8 人)くたー[*] おーい粗茶[*] tkcrows[*] ガリガリ博士[*] Osuone.B.Gloss[*] 水那岐[*] sawa:38[*] ぽんしゅう[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。