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[コメント] もののけ姫(1997/日)

他の宮崎アニメに比べると、金をかけた分映像はきれいだが、説教臭く、かつ現状肯定なストーリーにがっかり。(2020年6月の再上映で再び映画館で観た際の感想をレビューに追記。そして映像も同日に観た『千と千尋の神隠し』と比較すると全然大したことなかった)
月魚

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







封切り時に観て、当時は無力感溢れるご都合主義的ラストに井上ひさしの吉里吉里人以来のがっかり感を味わったのだけど、20年以上過ぎてどう見えるかが自分として興味があった。んで、やっぱダメでしたね。あの時よりさらにダメ。

そんなわけで、なんでこの映画を私は好きになれないんだろうとつらつら考えて、「公開日だけは決まっているのに何のアイディアも出せないまま日が過ぎていくのに焦ったあげく『風の谷のナウシカ』の焼き直しでいいやとでっち上げた」かのような全体的な雑さ(ストーリーや演出や構図や作画や音楽等々)もそうなんだけど、これが徹底的に「植民地映画」だからだと気がついたのです。

私のテキトーな認識では「宗主国の主人公が植民地で異文化の純朴で純粋な民と交流しつつ、その民を教導する」みたいなのが「植民地映画」なんだけど、最近で言うと『ラストサムライ』とか『アバター』とかですね。正確な理解ではないと思うけど、とりあえずこの文章ではそういう定義でいきます。 主人公は文明化された宗主国からやってきて、自然と共存する現地人に感銘を受けつつ(場合によってはちょっと心根が変化したりしつつ)、その現地人と共に(という体裁を取りつつ、その実、現地人を率いて)宗主国と戦って勝利をおさめるとか、まあ、そういう映画。

本作ではこれがちょっとひねってあって、主人公であるアシタカと「現地人」であるタタラ場の人たちは「自然と文明」という観点からすると一般の植民地映画とは逆。でも「自然の人、アシタカが文明に依存した現地人であるタタラ場の人たちを教導する」という図式は極めて植民地映画的で、しかも賢明なるアシタカはあらゆる場面で正しい判断をするし、タタラ場の民は良い人たちで、宗主国の人間が植民地の現地人に期待する純朴さを体現しています。

こうした基本的構図の中ででタイトルである「もののけ姫」ことサンの位置づけってのがまたちょいとモヤモヤする。「宗主国=文明、植民地=自然」というのを反転させた「宗主国=アシタカ=自然、植民地=タタラ場=文明」という関係が、サンが登場することによって再び「宗主国=文明=アシタカ&タタラ場、植民地=自然=サン」と一般的な植民地映画の構造に戻ってしまいます。で、この重層性が映画に深みを与えているかというと必ずしもそうではなく、私には作り手の視点が定まっていないだけにしか見えなかった。 実際に視点が定まっていないままゴロッと提示してしまったのが、この映画の最大の欠点であり、人によってはそこが魅力なのかもしれませんが、私には単に整理することを放棄して雑に投げ出したように見えたのです。

閑話休題:で、何が言いたいかと言うと、こういう植民地映画的視点が私は嫌なのですよ。アシタカの正しさも排他性の欠片もない素敵な幻想の田舎(タタラ場)も大嫌い。 実は『となりのトトロ』にも同じ臭いを感じていて、要するに宮崎駿が「田舎(というか故郷から遠い場所)」とか「自然」を描くとき、そこに植民地主義的な何かが抜きがたく入り込むんじゃないかと睨んでいるのです。

いや、宮崎監督ご本人は自覚的ではないのでしょうけど、その視線の先に私の生まれ故郷や、そこに住んでた頃の私がいるのですよ。

(評価:★2)

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