コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破(2009/日)

私はこれを「世界系に落ちた」と評したい。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







■何故、今更世界系?

元々がそれっぽくて、その走りとも評されるのは 知っているけれど、私はギリそうではなかったと 考えていた。けれど…。

これで完全な世界系に落ちちゃった…って感じだ。

「世界がどうなったっていい」

世界と個人的感情。客観と主観の狭間で、前作は世界の側に踏みとどまっていたように見えた。その後の世界系の流行で、あの時点で無自覚だったものが、意識化でもされたのだろうか…、今見ると後乗り感しかしない。あの時点ではどうしても超えられなかったものを、超えたのだろうけれども。

■作品評価

例えばエヴァ対エヴァのあのエピソードも、相手側のパイロットが、

◆TV版では、

“どこの誰とも知らない誰か”であっても(友人と後に知る)、

“人間の命を自分の手では奪いたくない”

…という道徳的な潔癖症を描いていたのに、

◆新作では、

アスカ…搭乗者が誰か事前に知りうる設定にして、

“見知った馴染みの人”だったから、

個人的な都合…“自分にとって特別な人だから”、

父の命令を拒絶してまで抗った。

…となっている。

これは、進化と言うよりは、退化であろう。全人類的博愛を射程にいれた葛藤と、とても個人的で私的立場を優先する行動、との対比となっているのだから。それをこそ救いだと感じる個人の多いことも判るが、神話を描く物語としてそれでは、決して全能神などではなく、祖神や家神にしかなれないだろう。

「大切な人を失えば判る」

…ってのが、もう。

ユイを失ったゲンドウという形で、視聴者の側では露骨なほどに対比されているが故に、親子として、シンジが子供であることが、無知・未熟な故に軽薄な正論を、他人を傷つける発言を、平然と言えてしまう…という、とても子供らしい子供として、子供らしさが、健全なほどに際立つ。眩しい。

描写される映像は、ほとんど変わらなくとも、扱っているテーマは全然違ってしまっている。いや、あえて変えてしまったようだ。

■一般論として、

まぁ、こういった提示する価値観の相違は、映画の評価とは直接関係ないし、どちらが良いというものでもない。作品の作品としての評価は、何を言っているかではなく、何を言うためにどのような表現を用いているかであるだろうから。もちろん個人にとっての価値・評価はこれとは別である。

ただ、映画として、ストーリーテーリングがかなりブツ切りで、流れがどうも不自然で刺々しく感じられた。観ててザラザラしていた。

例えば、シンジの反逆に対して、本部はあっさり制止してしまえるハズなのに、誰か(マリ)の二号機強奪(無断使用)を為す術無く見てたりするところ。その温さはなんなのか。判っていて ただ都合良く利用していたのか、部下に通達が無いだけで上層部の指令通りの事態なのか。

また例えば、エヴァの捕食のシーン。共食いマガイに第9の使徒を食らってるのだから、第10の使徒がヱヴァを捕食したとしても、それは それほど驚くこと なのだろうか?! 白けた。また、活動限界を超えての活動の異常さの描写として、前作は、捕食や機関取り込みの行為が奇抜なものとして効いていたのだけれども、今回ダミープラグの一件でその表現を使ってしまっている。なので、クライマックスの盛り上がりがいまいち気抜けしている。

最後に、逃げてから再びパイロット宣言するまでのくだりなど、絶対乗らないと決意したそれを、撤回するのが簡単すぎる。やられ苦しむ仲間の姿を見る(旧作)でもなく、一度会っただけの「誰か」の叱咤で曲げてしまう軽さ。

旧作エヴァでのそれは、(積極的)加害者になることを拒絶したことによって、言い換えれば、自分が見捨てるという行動選択の結果として、仲間が傷つくことになる場面を見るわけだ。そして、その苦しみ傷つく彼女たちの痛みを自分の体験と重ね合わせる。これによって、乗る/乗らないのどちらの決断をしても、自己の選択と責任の結果として被害者を出すことにおいては、それら選択がどちらであっても共に等価でもある状況に、物語として落とし込んでいた。ともかくその時点で、さらなる(消極的)加害者になる選択を回避するかのように搭乗を決意した。

それが、新作ヱヴァでは、そういったシーンをシンジには見せていない。当然、視聴者が見ていることが主人公の見たことに等しいわけではない。 ボロボロの二号機を見たとしても、それにアスカが乗っているわけでないことは、その時点のシンジにも明らかであろう。彼女(マリ)との出会いと再会の間に、シンジが彼女の存在を租借して受け止めているような描写もなかった。どちらも全くの第三者の行為として、シンジには体験されている。(その方が、状況に流された能動的な行為ではなく、内発的な自己決定…信念であることを強調できるからであろうが)。一応、もはや沈黙した生死不明な零号機が一瞬で捕食されるところはシンジに見せているが、手遅れな印象しかあたえないだろう。あの後で今更何ができるのか?

第三者の生死に対して自己の生死以上に執着した前者と、

第三者の言葉を自分の内なる言葉の代弁として選択したであろう後者の対比。

両者は正反対と言っていいほどの境地に立っている。

■続き物として…

ちなみに。

エピソード時系列ではTV版の終盤に留まっているが、二人が解け合ってしまっているこの結末は、劇場版での終局の場面とどことなく重なる。副題も。 本当に世界を犠牲にしてしまう…そうでもなければ、女を知る(レイ)ことすらできなかった/それでも、他人(アスカ)との接触を能動的に取れなかった…前作の彼だが、ここでは、自らの宣言によって、彼個人の意志、決断によってのみ(の代償で)、同じ境地(一つになる)に至っている。

これは一応、彼の成長と言うべきか。

フツーに戻った…子供らしさを保っている(未成熟)…と言うべきか。

人として健全なのは後者であったとしても、神・聖人の境地により近いのは、前作の方であったと言うべきではなかろうか。

■個人的評価

最大多数の幸福追求ではなく、極一部集団の利益代弁者へ。

例えば、(性別は異なるが)巫女が処女でなければならない…とされてきたことと似たような存在として、あそこ(旧作)で描かれたシンジの極限なまでに(能動的な)私欲を自制する姿を、救世主の素質として描いていたことを、私は評価していたのだけれども…。

この対比は、宮崎駿で喩えれば、『ナウシカ』と『千と』や『ポニョ』との対比になろうか。このような主張、子供向けの作品としては評価できるけれど、ジュブナイル的作品としては、ちょっと評価できない。

___│_全年齢_│_子供向け

客観_│ナウシカ_│

___│エヴァ__│

−−−┼−−−−−┼−−−−−−

主観_│ヱヴァ__│_千と、ポニョ

自己の生死を世界の生滅と混同するのも、個人としては確かにそれらは実質等価ではある。が、それは錯覚である。

世界系が流行していた時点では、個々人が「空気」に束縛され自己を萎縮させすぎていたが故に、その流行も理解できるし、なんとか評価もできた。しかし、もはやそれは問題とすべきことではないように思う。すでに自分の主観で傍若無人に振る舞う者の氾濫に憂慮して、客観的で他人とも共有し得る知識こそが求められる時代に入り始めていると感じている。これこそが、「イマサラ」と私の感じる所以である。

特定個人の利益追求は、往々にしてその他大多数からの財産簒奪である(ゼロサムゲーム)。その前提で被害を最小化するためには、一策として、強奪しかねない強者ではなくあえて弱者を担ぐこと。それがいわゆる大衆化だ。これは全体を底辺に合わせる悪平等として槍玉に上がっているが、だからと言って強者優遇に走れば、社会は必然的に弱肉強食へと落ちる。それらどちらでもない第三の道としてWin-Winの関係の構築へ向かわせるためには、はたしてどのような人材を担ぐべきであるか。「神の創造」とは、そのようなものとして描いて欲しいものだ。

まぁ、故人献金問題のある党首の方が、疑惑無き政権より支持のある日本の今、多少の身勝手などに忖度していられないほど、背に腹は代えられなくなっている面もあるのだが。誰が行うか ではなく、何を行うか。政策が良ければ指導者は誰でも良い。…みたいな。

しかし、このように書いてきて…、

「ヱヴァに乗って使徒と戦う」ことのメタファーが、なんだか

「金融工学を駆使して自己資本を守る」ことのように見えてきた。

<090718>

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。