コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] スカイ・クロラ(2008/日)

「永遠に生き続ける」…これは「生きている時間が(単に)永遠だ」ってこと? 「“永遠”に囚われて、その中で(未だ)生き続けている」ってこと?

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この作品を、いろんな意味で私にはリアルな作品とは思えない。 世界観だとか設定だとか感情表現だとかでなく、即物的にリアリティが感じられない。クオリティの高い作品であることを否定しないけれども。 例えば、ストーリー的に演出としてさほど重要でないけれど、念入りに描き込んだ動画シーンが、心なし早送り再生されているように見えるようなもの…だとか端々で。「間」はふんだんあるけれど「余韻」が無い…これは作品テーマに通じなくもないのだろうけれど。

■クライシス■

思うに、若年性痴呆になりかけた者の症状ってのは、この主人公のようなものなんだろうな。 そして、いわゆる厄年に迎える災厄ってのは、こういったクライシスを警告してるものなんだろう。乗り越えた者はその後の人生があり、囚われた者は死に至る。 これは思春期の葛藤とも呼ばれるクライシスとも確かに似てはいるが、決定的に異なるものであろう。(…※1)

そして、やはりこれは、現43〜55歳の世代の物語だよ。(…※2)

「大人」を「ティーチャー」と呼称して登場させるところなんか、学級が全世界であったような学生時代をテーマとして扱っているようではあるけれども、学校の日常の繰り返しが無限循環を彷彿させるものであることを認めても、むしろこれは、受験圧の強かった時代の世代が、未だにその世界観から抜け出せていないほどに根深さを刻んでいるのだなぁ…と読み解きたくなってしまう。例えば、負け犬アラフォーが追い求める幻想とかも。(…※4)

キャラに子どもを自称させていながら、タバコやビールに対する拘りを持たせている。…捻れている。 この捻れ方は、至極、団塊〜新人類世代的で、団塊Jr.〜アキバ世代にはあまり無いものかと。それは消費動向とか見ても言えるもの。 逆に、例えば娘を妹と名乗らせたり…の、若さ信仰。孫にお婆ちゃんと呼ばせない。姪におばちゃんと呼ばせないような世代が投影されている。(…※3)どこか若さ=強さの不文律。能力・才能・技能の評価を追い求めているくせに、いつまでも大人の責任は負いたがらない。この意味では、広く取って2007年問題を引き起こした現在の定年世代までも含めて良いかもしれない。

いつの時代にも通用するテーマを見いだせない訳ではないけれども、現三十代〜二十代に向けてピントを絞られた作品ではないように思える。ただ、積め込み教育復古期とも言える今世紀以降に学生だった、現二十歳以下の若者においては、将来、大きく同感する作品となっている可能性を感じたりもしなくもない。ゆとりの緩衝と二極化の影響がどう作用するか。

故に、キルドレ(キ≒チでチルドレン?)ってものの存在は、SFに基づいていると言うよりも、現実の寓意としてのそれに基づいていると言うべきであるように私は受け止める。SF発で成り行きを組み立てると私には不合理に感じられる箇所も、であるならばなんとか許容できる。遺伝子云々の設定描写がお愛想程度であるのもむべなるかな。

■戦争の存在する意味■

「戦争の意味」のような説明の部分を受けて、そこに世の寓意のようなものを真理のように見出した観客の中で作り上げられるイメージのようなものは、団塊Jr.辺りをデバイドに上の世代と下の世代で全く逆の認識をしているんじゃないかな…。と思える。フィクションを極限までリアルに近づけようと苦心し続けてきた世代の行き着いた結論としてのそれと、そもそもフィクションをフィクションとしてそのままにリアルを感じてしまっている現行世代との差として。後者にあっては、アルバイトのような大義のない目先の課題に前後不覚に没頭して、そのまま壊れて正に命を絶ってゆく。この安全で殺し合いを強要されているわけでもない平和な日常が、映画に描かれた世界そのものでもあるのだ。この感覚は、このリアリティーは、上の世代にはそうそう理解できまい。

あと、CMでも繰り返されていた「何度…愛し合う」…その輪廻的に語られていた「恋愛」の描き方なんかが、唯一無二の運命の相手との永劫の繰り返し“ではない”ところなんかは、新人類世代辺りにあるであろうデバイドの下側に重点があるといえるのかな。赤い糸的な信仰は無さそうである。

そして、クライマックスの入り口となっているであろう台詞「子どもが子どもを産んだ」。デキ婚ブーム以降の世代なんかでは、この言葉にさしてタブーを感じていやしないだろう。配置からクライマックスを演出なのだろうが、そうは機能していないはず。感じても絶対的な一線を越えたようなインパクトは与え得ないだろう。このデバイドによって、私はこの作品をこれより上に配す。

■現実の投影としての結論■

私なりにあえてあのラストを今の社会的に意味付けるとするならば…、

この社会は、欲望をエネルギーとして駆動することによって成立している。その社会にあっては、主人公のあのような「達観」に至った者は、その役割を失っている。故に殺されねばならない。…ということになろう。それはどんなに優秀であったとしても使い物にはならない。 明日をも知れぬ絶望と、昨日をも覚束無いアイデンティティの喪失の中にあってこそ、目の前の課題に全勢力を注ぎ、次々に課題をこなし続けることができるのだ。そのような存在は、組織に抗うことのできない都合の良いロボットとして、組織を構成する駒として、価値がある。死にそうになっても無理にでも生き返らさせられる。それは大多数の国民が鬱病に陥っていても、例えばクスリによって「治療」…強制的に「再動員」させられている今のこの社会を招いている。人を狂わせる元凶はその環境にあることが判りきっていても、そこに目を向けることを許さない。考えるから苦しむならと、その意味を考えることが奪われる。キルドレ…私には「着る奴隷」に聞こえる。

でありながら同時に、マンネリをマンネリとして受け入れてしまうことは許されない。ありのままを受け入れ、些細な違いに幸せを見出すような生き方は許されない。唯一無二の絶対的「正解」に向けて極限まで収斂することが求められる。発狂しそうなほどの狂気こそが、その内面に押し込められた内なるエネルギーこそが、この世を突き動かすエネルギーの根源であるのだ…と言っているのだろう。そしてその内なる葛藤は、表面に出すことは許されなくとも、内に持ち続けていなければならない。外面上その違いはまったく分からないけれども、両者を選別する神の見えざる手のようなものが、この社会には厳然として存在するのだと語っているのだろう。その価値観が、引きこもりを人扱いせず、夢を両立させるアルバイトを差別的扱いにしていても、なんら心理的抵抗感を感じさせやしない。

主人公の辿り着いたあの「達観」は、その考え方、その処世術は、厄年を乗り越える伝統的な処世術であった…と、私は受け止めている。しかし、欲望を駆動して成立しているこの社会は、その処世術を排除している。それを認めてしまえば、大量消費社会は揺らいでしまう。資本主義社会を維持するために、市場経済主義を守るために、排除が正義となる。…今日も若者が「戦死」している。しかし、あの世代は、自らの後ろを振り返ることもなく「父殺し」を延々と躊躇し続けている。

「永遠に生き続ける」…これは「生きている時間が永遠」ってこと? 「“永遠”に囚われて、その中で生き続けている」ってこと?

私の感じる一番の違和感はここにある。ただ生きている時間が永遠なだけならば、たぶん三ツ矢のような独白はすまい。草薙函南の言葉をああは受け止めないだろう。「永遠」という「一瞬」に囚われているからこそ、気も狂わんばかりに爆発ができる。その荒々しさは、永遠を一瞬にまで凝縮しているその密度に、おそらく比例している。

■追記090314■

◆死◆あのラストの戦死を、さらなる循環への回帰だと、ゲームのリセットだと、銃殺から生き返らせられたことと同質に重ねて観ている者の居ることが、俄に信じられない。あれは完全な死だろう。続きの無い。極々当たり前の死。そして彼の技術も才能もノウハウも、永遠に失われてしまった。誰に継承される事も無く。 ◆そこに、別の誰かによって再習得・再発見されるであろう可能性も含めて輪廻だとか言い出すならば、それはもはやゲームによって喩えられることの必然性は失われる。それは全くバーチャルなものではなく、完全にリアルなこの現実そのものの中で当たり前に繰り返されていることなのであるのだから。

◆子供用の乗り物◆あの頭身になって「子供用の乗り物」に乗ってるところなんかは、受験地獄(教育ママ)世代が、子供時代に子供らしく遊ぶ経験をし損なってきたことを意味しているのだろうし、「おれ子供だし」とか言ってしまえるのも、この世代のある程度地位が安定し、恥ずかしいからといって自分を脅かす上の世代の存在が薄くなってきたから言えるようになってきたものとして見える。 ◆昨今のオタクの開き直りっぷりは、彼らの動向が上からの貢献となっている面もあるし、臆面のない下からの視線が、彼らの行動を助長させている…この十数年は、そんな関係にあったように見えた。 しかし、そのように弱体化している引退世代にすら、未だにモラトリアムっている。オイディプス・コンプレックスを解消できないでいる。「父殺し」を躊躇っている。それほど学園闘争時代の敗北のトラウマは、強かったってことなのでしょうかね。 その後、校内暴力世代をデバイドとして、完全な「学校化」の中で育った団塊Jr.世代以降にも、漠然とした閉塞感は影として落としている。が、そちらでは敗北感が自覚されていることはおそらく無い。その鬱屈は自分か、まったくの第三者くらいにしか向けることはできない。

◆世界系?◆大局観が語られない作品として、世界系に分類されてしまうのかもしれないけれども、そこに行き着いた意味は、「戦争の意味」を別つ両者の差を感じさせる。◆ありがちなテーマでは、子供らしい幼い世界観(大局観)がまったくの陳腐なもので、実際には何も判っていなかったのだ!…というような前提(あえて語られない暗黙の前提)から、大局観の不明確さをあえて演出してきたものが、いわゆる子供から大人への、失楽園的に社会に出る若者に向けたジュブナイル作品というか、クライシス作品のテーマとしての表現方法というものである(であったのでだろう)。◆しかし、この作品が作られる過程で辿ったのは、おそらくそれとは全くの逆。大局観を十二分に解り切った上で、その意味や構造に価値を見出さずに捨てた先の、見出せずに絶望した上の、半ば意図的に忘却した先の、それで何の問題も無いのだと解り切った上での描く価値のないものをあえて描くことをしなかったものとしての、不明確な大局観であったように思える。◆錯覚的に、主観的に、全世界の運命と個人の生死を同質にみなしているとされるのが世界系だとすると、こちらは、客観的に、合理的に、自分個人の運命と世界の行く末との間には、なんの関係性も影響関係も無いと見なしている上に描かれている。であるならば、この違いは小さくない。

■追記090326■

■キルドレ ■アラフォー負け犬女的経済活動中心主義的な存在。…結婚せずに金にはならない社会的責任を負うような事には目もくれず、ひたすら経済的な組織的な昇進・出世に邁進している存在。同じほど娯楽には貪欲であっても。それがこの「キルドレ」という存在が体現しているものであろう。 ◆とりあえず女とは書いたけれど、これは今の時代にあって意味を判りやすく表現するためであって、特に性別を限定するつもりはない、さらに一昔前には、独身貴族と呼ばれていた存在も含めている。 ■キルドレ…それを子供だとは言っても、社会人(成人)である。きちんと子供も産める。決して大人の役割を担えない存在ではない。そんな要素は一つも見受けられない。 ◆それを子供と呼ぶことの意味はなんだろう。大人であっても大人であろうとしない世代の、内心の姿としての“永遠の若さ”の寓意。実際、もはや、美容整形やアンチエイジングによって、それが現実の姿でもある者も多い。これはSFや仮想世界のみの物語ではない。 ■汚職・談合が社会問題の大きなウエイトを占めていることを認めないわけではないが、経済至上主義社会とは、このような「キルドレ」達の“独壇場”であることも、また大問題としてこの社会を覆っている。市場原理主義社会にあっての企業戦士。そのエース達…経済発展の原動力であり救世主でもあるはずの彼らの存在が、この社会を蝕んでゆく。 ◆彼らのような存在は、「大人」になることを拒絶し続けていながら、作中でも描かれているように、夜の街では“大人の”女性を食い物にしている。決して非モテという訳でもない。大人と子供を場面場面で使い分けるご都合主義な存在としての「キルドレ」。確かに命を賭して尽くしてはいるのだけれども、「大人」の社会を浸食している。それを犠牲にして駆動している。 ■そのような「キルドレ」ではない「大人」達は、価値の無い存在として、認知の外に外される。メディアには載らず、メディアに載る存在だけがこの世の存在全てとなる。その象徴としての新聞と、希薄で描かれない基地外の世界。 ◆あのような「キルドレ」…永遠の子供達…になってしまうこともなく、優秀ではなくとも、幼少の夢の延長として地に足の付いたまま、きちんと「大人」になれた者達が、「キルドレ」のように優秀ではないという意味で未熟さを抱えたまま生きることを受け入れた存在である「大人」達が、その「現実感」から、自らのアイデンティティに根ざした人生を送れる社会となるのか…、八十年前の日本がそうであったように、「現実」に示された「大義」の前に、絡め取られるように動員されてしまうのか…。それは、今という時代に懸かっている。 ■

■日常の循環性 ■ループの中で惑う。これまでも描かれてきたものは、何故か不思議と女性の葛藤として描かれてきた。女性の言葉として代弁させられている。 ◆しかし、見るとその作家はたいてい男性である。これは、「嫌」や「奴」など女偏の付く漢字は悪い意味なのは男性中心文化の証明だとまことしやかに言われたような、父権主義的な価値観にそぐわないものは、女性に担わせるというような価値観に基づいているのだろうか。 ◆そして、書いているのが男性ばかりであるように、その耐性が弱いのはむしろ男性なのかな。とも思う。 ■プチ家出世代のリストカット癖などの話を聞くと、こうは言い難いのだが、女性的な大地母神的な信仰では、惑いよりも安心の根源であるとされているように見受けられる。 ■

◆※4◆追記090326におけるキルドレの節冒頭で補足(↑)

◆※3◆登場人物の内発として描かれていないことは認めるよ。しかし、そうは描かないことによって、おそらく同様な当事者の自己認識の側が強調されている。自覚していないが故に、しようとしないが故に、その苦しみは深みを増して行くしかない。

◆※2◆私が対象として選んだ範囲と、監督の年齢に僅かなズレがあるのは認めてますよ。それは監督がおそらくシャーマンタイプの監督であるということをもって、その理由とさせていただきます。原作者は51らしいけど、原作未読。

◆※1◆やはり、例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』や『時をかける少女』のようなものの扱っているテーマとは、根本的なところが異なっている。似てはいても。

(評価:★2)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。