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[コメント] イノセンス(2004/日)

人形の痛み?! 人形に人を投影する者の痛み…でしょう?

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







衒学的な独白が五月蠅過ぎて、話の本筋が霞みすぎ。

本来描けたはずの起伏が平坦になってしまっているが故に、起承転結の「転」にあたるはずであろう展開が、意外でもなんでもない、当たり前の展開のようになって流れてしまっている。それってあまりに勿体なさ過ぎない?

もちろんそれこそが彼の映画の持ち味であり、それこそをファンが求めているのだという説明が返ってくるのだろうけれども、それにしても…だ。

魂と肉体、精神と脳、物理的機器とゴースト。

そういったものを対比させて描くことで、その意義を浮かび上がらせる仕掛けに満ちているのは判りますよ。そのような哲学的思索は、私も嫌いではない。

しかしであるならば、例えば…、少佐という「守護天使降臨」を直接的に描きすぎている。 話の本筋を濁してしまうほど、“ソコ”に拘るならば、せめてあそこは「そうかもしれない…」と感じさせるだけの描写に抑えておいて欲しかった。 偶然、そうとも取れる動きがあった程度に。 あんなにハッキリ・クッキリ会話までして背中を預け合うタッグファイトをさせるなよ。 そう見れば、なんとも興醒めだ。 あの描写では、オカルトの妖怪や、SFと言ってもサイエンス・ファンタジーと呼ぶべきものと、同レベルに落ちてしまっている。

そこを映画のクライマックスとして爽快に盛り上げるならば、やはり追うべきストーリーの起伏は、…根拠付ける複線や、そんな展開を想像させないミスリードの描写は…、もっとハッキリ、記憶に残るように、インパクトを伴って描いておくべきだ。

ラストで、同僚の娘の抱く人形…として象徴的に描かれていたように、また作中の語りで直接言及していたように、他人という存在は、自己の認識によって存在する。ママゴトは子育ての練習ではなく、会話の相手としての他人であり、その「他人」は、その思索を組み立てる主体は自分の中に居る。人形遊びは自己形成そのものであり、バトーの言う「守護天使」というものも、本来それと分別できるものではない。主観の定位無しに、人形と人間の違いなど、誰にも特定できやしない。確度の異なる推定ができるだけだ。であるからこそ、あのクライマックスは、私としてとても不満だ。どちらの観点から判断しても。

■仮に…

「守護天使」が降臨してのち船艦の衛星通信を切る。制御を奪い制圧する行為を少佐に行わせる。そもそも彼女が降りてこない可能性を全く想定していない。なんなんだこれは。彼女の意志という不確定要素に賭けるという“博打”ではなく、確実な任務遂行である…と受け取れるようには描かれていない。想定外の危機を彼女が救った…のではないのだ。

初めから外部とは繋がっていない事実が、実はどこかで描かれていたってのならば立派だ。そうならば、彼の中の「少佐」は、彼だけの信じる根拠の無いものとなり、彼の無意識のようなものと、個人の認知外である世界の側からの干渉の狭間に現れる「現実」として、あの艦内で起こったことを、バトーの主観による現実の解釈であることにできる。コンビニで視覚を奪われたこととも、ハッカーの館でのループ体験とも比較しうる個人的体験として成立しうる。誰にもその「ウソ」を否定され得ないと言う意味においての「真実」として。

大量生産される同等の存在である沢山の人形の中の一つを特別とだ思い、その特別な一つを他と分別する行為。特別でないものを、特別に思う感情。また、意図して自分を守ろうとする意志から起きた行為と、偶然によって結果として自分を守ることになった、ただそこにあっただけの個体。本来区別し得ないそれらを、それが仮にどちらであっても、それを特別だと思うことは、その存在を自分にとって特別だと信じることは、彼にとって重要であるのだし、現にそう信じえる体験によってピンチを回避しえた。同じ意味で少女の抱く人形も、少女にとって重要な存在である。生きた友達と対比できない存在として。信じることで、彼は命を繋ぎ、少女は成長する。それは「命の重さ」として あらゆる人間が「同等」にされてしまっている価値観の中で、特別な「誰か」を結婚相手として選択することも、ほとんど似たようなものだ。

蛇足ながら…、母親は子供を育てる超越者として存在するのではなく、子供によっても育てられる存在として、子供と関係している。そのような意味で、子育ては人形遊びと同等だと言っている。ハラウェイは、子育てが子供の人形遊びと同レベルにくだらないことだと言っているのではない。むしろ逆だ。

■さて…

母体回帰的な真っ赤な海に漂う潜入描写の後、再び他人の視線のある「現実」に回帰するまでは、バトーにとっての完全なパーソナル・タイム。

組織に管理される存在である彼には、例え自宅であっても、それは担保されていないのだろう。もっと厳密に言えば、キムが脳を焼かれ倒れ、艦内待機の警備員を全て始末してから〜騒動の発端たる少女を引き抜くまで…か。

あの派手なガイノイドとの格闘シーンの部分は実は、彼がセクサロイドともなり得るその機体を試し、戯れていた時間だったのだ…と解釈しておこう。

彼が少女に対してキレたのも、たまたま暴走するに至ったあの人形が、偶然にも少佐に似ていたから。あれは、思い出を穢された〜的な八つ当たりであり、それは、大企業を潰す程度でも収まりが付かず、あんな年端もいかない少女に対してすら、それを抑えられない。観客にはそう見えてしまった〜のではなく、そのような人間をこそ描いたのだ…と。この映画は。

犬を抱くバトーと、人形を抱く娘を抱くトグサとの対比。 あの長い沈黙までそれに気づかず、そこでやっとこれに気づいた男の物語。

「犠牲者が出ることは考えなかったのか?(心が傷ついた俺が犠牲者だ)」

「人間のことじゃねぇ(犠牲になった他人のことなど知ったこっちゃねぇ)」

「魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか?!(不愉快な行いをする少佐の似姿を見せつけられた俺の気持ちをどぉしてくれる!!)」

(事件さえ起きなければ、俺はその存在を知ることすらなかった。男の玩具として穢されていた事実をも。)

…そんな無茶な(笑)。で、真っ当な少女の叫びに我に返る。そりゃそうだ。故に直ちに別の言い訳を作る。自分は人形の側に立っていて、人間の視点でしかモノを考えられないこんな小娘とは違う!…と、あの台詞を少佐の側に言わせる形で。しかし、そのような屁理屈が立つのも主観的なこと。人間の側に立ってないことが客観的なのではない。どちらであっても同等な主観。そして、人形を抱く少女を見て、そこに自分の屁理屈を見る。「魚」であれ「鳥」であれ、それらを置き換えてもその言葉の意味は等価であるように…。抱いているのが人形でなく生きた犬であることの違いなんてものも、その程度のこと。だが、その少女を抱く父親を見て、もう一段上の視点に気づく。

■追記090328■野暮な蛇足でありますが…

トグサは言う。

「あの船に 現れたんだろ? あんたの守護天使」

「まただんまりか…」

「俺が報告書に書くと思っている?!」

そもそもすっかり「大人」になっているのであれば、そんなことを言うことすら無いのだろうが、自明なほどに判っていても、それを無かったことにすることも厭わないのが大人ってものだ。それがちゃんと「子育て」を体験した者の、「人形遊び」を卒業した者の、辿り着く境地ってものだ。

自己に異なるという意味で他人である子供を、自分の死後にも生き続ける自分の分身として自己そのものと見なし得る対象たり得るそれを基点にすれば、その子供にとっての人形は自己と同等に他人であり、そのレベルでは自己とも同等である。尚かつそれらが共に自分でありながら、同時には自分として成立し得ない。シュレーダーの階段のように、両立できない意味では矛盾であるが、主観・解釈を取り除けば単なる単純な一つのの絵。矛盾ではない。それを矛盾する二つの意味を浮かび上がらせるのが自己を定位する意味での主観。

三者関係の中に身を置く者と、あくまでも二者関係に留まっている者との対比。二人称から三人称を手に入れつつある者の対比となっている。

社会的責任とか、社会の構成員足ることとは、そのような親子関係のようなものをも、数多の他人との間へ際限無く共有して行くことであろう。相手の中に自分を組み込むと共に、自分の中に相手を住まわすこと。その相手が物理的に死んでも、自分が消えても、その一部が、代理が、情報を元にした判断が、あたかも未だ自分が生きているかのように、社会に影響を与え続けてゆく。連鎖し続けて行く。些細で儚いものではあるけれども。少佐の辿り着いた境地というものは、やはりそのようなものであろう。この意味において、電子機器など開発される以前からずっと、人は「ゴースト」と共にあった。それは、人が脳を進化させてから…いや、生命が記憶というものを手に入れてから、いや、生命に非ずとも記憶を元に運動しうる個体はすべて…。電子機器の発明・発達は、単にそれを一段判りやすく見せただけだ。

精神にとってリアルとは、生きているとは、単に抱くと暖かい生体活動を維持している存在(犬)ではない。犬と人形の等価性。ゴーストとは、万物に宿っていると言いうるもの。自分を、自分の愛する人を、永遠の命として未来へと残すために、生かすために、引き継ぐために有用な行為とは、死なせないように犬を飼うことよりもむしろ、社会の中で人形遊びをすることの方が、その効果が高い…と言い得る。この意味で、犬を抱くバトーは人形を抱くトグサの娘以下だとも言い得る。彼の「だんまり」は、それを続けるほど、肉体を失ったゴーストの存在を相対的に萎縮させる。ゴーストの情報複製・存在拡大、増殖の機会をその都度一つ一つ断っているようなものだ。

独占欲という心中物語。そして、消極的自殺…。

(評価:★2)

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