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[コメント] 月はどっちに出ている(1993/日)

筑紫哲也氏曰く「在日の主人公を演じると、その男は役者として大化けする。魅力が全開する。例えば『月はどっちに出ている』の岸谷五郎、『GO』の窪塚洋介、『夜を賭けて』の山本太郎」だとか。何故なら、
Linus

「在日の役というのは、存在感がある。日本社会の中でいろんな ハンディキャップを背負っている彼らは、自分の力でそれをはねのけて 生きていかなくてはならない。その代わり、アウトサイダーとしての 視線も獲得できる。そういう役柄設定は、こののっぺらぼーな社会では、 他になかなか見つからない」からだそうだ。

確かにそうなのである。今の日本人にナイのは、ほんとパワーなのだ。 こんな裕福な国の住人になったのに、日本の若い世代に、べっとりと 皮膚にはりつき離れないでいるのは、虚無感だ。

同じくヤン・ソギル原作の『夜を賭けて』についていえば、 制作費が全然見込みがつかなかったのに、プロデューサーのカク・チュンリャンは1年で5億(!)かき集めて、完成にこぎつけたという。 失敗すれば、5億の借金である。今の日本人なら、こんな冒険はしない。 失敗と背中あわせの夢なんか追い求めやしないのである。

この現代社会のコリアン・パワーはなんなのだろうと考える。 イジメラレタ側というのは、私たちが考える以上に根に持っていて、 いつか見返してやるという気持ちが強いんじゃないのかな? などと ふとそう思う。だとしたら「人間万事塞翁の馬」だ。戦中・戦後、 コリアンはイジメラレル側になったが、それが今のエネルギーの源に なっているとしたら、私は、あなたたちが羨ましい。翻って私には何も ないと虚脱感に見舞われる。

数カ月前、ある友人と飲んでいて、友人に「映画にさ、人生を変える力なんてないよ。映画なんてただの娯楽だし、世の中にあってもなくても、 どっちでもよいもの」と言われた。私はなんだか無性に腹がたって「はぁ〜。何言ってんの? ちゃんと映画見てる? 黒澤の『七人の侍』が 3時間以上に及ぶのに、戦後あれだけ見て貰えたのは ただの娯楽作品じゃなかった証拠でしょう? 少なくとも50年代の 黒澤映画は、終戦で疲れきった人たちに、夢やエネルギーを与えた わけだから、絶対、日本人に必要な作品だったと思う」と力説した。

勿論、私は、今もこの言葉を撤回する気は毛頭ない。最近、シネスケでも 黒澤映画を再評価しているような気がするのだが、つまり、若い世代が 憧れをもって、黒澤作品に接しているような気がするのだ。 あのパワーを一時暑苦しいと見た時代もあったのだろうが、 90年代の監督至上主義・日本映画の洗礼を受けた世代には、新鮮さに うつるのである。(※1)浅田彰が80年代のはじめ「ノリつつシラケ、 シラケつつノル」なんて言葉を使ったように、そんな感じで生きてきた 人は、私を含めてたくさんいるのではないか? 

それなのに、今、私は、確実に、在日コリアンを嫉妬している。

学生運動の敗北(60年代末)→しらけ(70年代)→ニュー・アカ(80年代)→不景気(90年代)→日本人、どっかで道を間違えませんでしたか?

在日朝鮮人(あえてこんな言葉使ってみます)元気いいなぁ。 「人間万事塞翁の馬」だとしたら、この虚脱感(不幸)も、いつか エネルギー(幸せ)に転化できるってことでしょう。しばらくは、 コリアン・パワーに圧倒されてますが、すぐに元気取り戻すから、待ってろよ。(誰に言ってんだ?)

※1 「映画自体が、監督至上主義だ」と言う人もいるかもしれませんが、 この言葉の定義を、90年代以降の脚本家を兼任する映画監督(北野武監督やぴあフェス出身者など)に使わせて貰います。

(評価:★4)

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