[コメント] あの子を探して(1999/中国)
映画を見終った人むけのレビューです。
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中国の映画を観ていると、映画によってまるでセカイが違う。一方ではコンクリに埋め尽くされた現代都市、一方では土塀で拵え挙げられた家が建つ農村。
中国にはトウ小平の「先富論」という理屈があるらしい。国家発展の為に経済的発展の可能性の高い地域から優先的に開発していくという(何とも分かり易い)理屈。
この映画の主人公ウェイ老師(13歳)は50元の給料の為、生徒を連れ戻しに都会へ出向いていくが、じつのところそれで貰えるはずの50元は街との往復の旅費にすら及ばない。出稼ぎ少女の一日の労働賃金は可口可楽(コカ・コーラ)一本分(3元)にも満たない2元5間。チョークを買うのさえ難儀している農村もあるのに、TVでちょこっとCMするだけで文房具がわんさか送られてくるのも、皮肉と言えば皮肉。その経済格差って凄まじい。(高度成長期日本の比ではない。)この映画はハッピーエンドに終わるが、現実には路傍に屍を晒す子供だっているのには違いない。こうしてまとめてしまうとACのCMみたいだが、子供はまさに子供でしかないが故に素直に社会を反映する鏡となる。これは人間ドラマというよりは、そういう映画なのではなかろうか。
登場する子供達が徹頭徹尾「カネ」を行動原理としているというわけでは勿論ない。けれど彼らを取り巻く(彼らがそれと自覚することなく)生きている現実はまさに「行動原理は、ずばりカネ!」な社会だ。一個の人間の現実は属する社会の現実に否応無く規定される。富裕な社会の中で所謂「人間ドラマ」が素朴さを失い、過酷な現実の中で逆説的にそれが輝きを見せるというそのことを、そんなに素直に受け容れてしまってよいのだろうか。それは何を肯定していることになるのか。過酷な現実に疎外されて路傍に屍をさらして果てた名も無い子供の死さえも肯定してしまうことになりはしないか?
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