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[コメント] 学校II(1996/日)

黄色い…

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







バルーンが、突然にぽっーんとな。(一応、冒頭に伏線はあるのだけれど。)

うんこー!うんこー!っとな。

叫ぶのよ、笑うのよ。

それで、救われる。

映画の中で彼ら知的障害児達は、「こちら側」、つまり社会の視点から包み込まれてそこにいるように見える。思えば彼らはいつも「対象」だ。たとえどれだけ暴れ回ってみせようとも、もしそこにいるのが本物の障害児達であったなら、それはそんな良識的な視線に包み込まれてしまって、身動き取れなくなってしまっていたかもしれない。

主人公とも言えるふたりの“少年”のうち、吉岡秀隆は本当は「こちら側」にいる役者だが、神部浩の方は少し微妙だ。プロの役者ではあるが、正直に言えば、彼は「あちら側」に片足を掛けている、ボーダーライン上にいる人だと思う。もしふたりがふたりとも「こちら側」の役者であったとすれば、この映画はもっと激しく観客の違和感をぶつけられることになっていたのではないだろうか。それは商業映画としては手の出しにくい存在だろう彼らを、類型化されたキャラクター性だけ手前勝手に「こちら側」に呼び出して、「こちら側」の都合でそれを演じさせるようなことになっていたのではあるまいか。

この映画は、神部浩がそこにいて虚実も定かでない身振りで“熱演”してくれていたことで、虚構の中に「こちら側」と「あちら側」が共存することが出来たように思われる。それ故にこそふたりの少年は、虚構の物語の中でぐんぐん先生達の追跡から逃げていくことが出来た。「こちら側」の視線を、束の間空の上からあざ笑ってみせることさえ出来た。それが虚構の物語、映画であることの効用というものだろう。「こちら側」と「あちら側」の闘争的な呑みつくしあいから、彼らをその真上に広がる大きな空間の中へと、束の間見事に逃がしてみせる。地上に降りて先生達にとっつかまった彼らは、やはり最終的には「こちら側」の視線に取り込まれてしまわざるを得ないが、それは生きていかざるを得ない限り、仕方のないことなのかもしれない。

これが同じ様な題材のドキュメンタリー映画であったならば、キャメラの構え方と対象との関係の結び方によっては、「こちら側」と「あちら側」の境目などそれ自体まさしくありもしない虚構のように消えてなくなるかもしれない。実際それは「私」と「私」がぶつかりあうそこ、その一瞬にあっては全く問題にならないか、あるいはその一瞬にこそ問題が最も深刻なかたちで浮き彫りになったりするのかもしれない。(*)とは言えそれでは、「こちら側」にいる普通の客は観に来ない。山田洋次の視線は、自分が「こちら側」に留まりつつも「あちら側」にアプローチしようとするその意味で、貴重ではあると思う。仮にもプログラム・ピクチュアの枠組みのなごりがあり、そこにヴェテランの安定した技量を具えた作家がいたからこそ、こんなメジャーな環境でこんな題材を商業映画として扱えたのかもしれず、こんな映画も、近い将来には過去のことになってしまうのではあるまいかというふうにも思える。

*)原一男さようならCP』。

(評価:★3)

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