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[コメント] 七つまでは神のうち(2011/日)

シナリオの辻褄合わせがホラー映画としてのサスペンス効果を殺いでいく。何かに「恐怖」するという感覚は、単なる緊張感の高まり(それは簡単に造り出せる)とは似て非なるものである筈ではないだろうか。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







映画館で観てきた。ポスト黒沢清がどうのこうのという宣伝文句に乗せられて…。

「恐怖」という感覚は、思うに単なる緊張感の高まりとは異なる何かなのではあるまいか。この映画に頻出する一見するところの恐怖演出(?)は、しかし解体してしまえば単にそれらしい音楽効果と映像効果で、素人にさえあまりにも判り易い段取りを機械的に踏んで構成されたシロモノでしかない。「判り易い」というのは、つまりそれが緊張感を煽って高める為の「恐怖演出」であることが、それを見ている瞬間中にさえ観客であるところの私達に自覚されてしまう、ということだ。「ああ始まった」→「くるくるくるくる…」→「きたー」…というような心理的プロセスを自覚させられながら見る、しかしその感覚は「恐怖」であろうか。

思うにこの映画で多少なりとも本当らしい「恐怖」という感覚に接近していたのは、廃校の中で黒いシルエットの女が意味不明な言葉の断片を吐き散らしながらそこにただ立っているという、不可解なイメージではなかったかとは思う。何故それが「恐怖」という感覚に接近していたかというと、それが不可解だからではないか。のちにそのシルエットの女の正体はあきらかにされてしまうのだが、あきらかにされてしまったその正体よりも、はっきりと不可解ぶりを見る者に押しつけてくるその場面の方が、はるかに「恐怖」という感覚に接近している。そこで肝要なのは、やはり「不可解」というキーワードだろう。

この映画は、複数のストーリーと思われた断章的エピソードが、あとから一つに収斂していくという構成になっている。裏事情を察してみるに、もしかすれば若手の女優起用という企画意図が先行していた映画だったのかも知れず、その点こういう構成になっているのも仕方のない映画ではあったのかも知れないが、たとえそうだったとしても、この映画の構成はホラー映画としてはとても拙劣なものになってしまっているのではないか。というのはつまり、複数のストーリーが一つに収斂していく中で、それがストーリーの辻褄合わせという形をとってしまう為に、「恐怖」という感覚の真髄となるであろう事象の「不可解」というニュアンスが消滅していってしまっているからだ。

それはたとえば、観客が無意識に画面の中の主体と思われる人物に感情(感覚)移入するという映画としての基本的構造にも影響を及ぼしており、ストーリーの辻褄合わせが進む中で、この場面ではこの人物は死なないだろうとか、あるいは逆に、もうストーリーに必要ないからこの場面ではこの人物は死ぬのだろうとか、そういったことが全て観客の意識に自覚されてしまうのだ。だからそこでは、ホラー映画としての命とも言える生きるか死ぬかの肝心のサスペンス効果が無効になってしまっているということだ。なぜそうなるかと言えば、それがつまり、ストーリーの辻褄合わせによって映画の中で生起している事象の「不可解」というニュアンスが消滅してしまっているということなのだ。

だからこれは、ある意味で全体として観るならば、テレビのサスペンスドラマの如きものであって、辻褄合わせの為に拵えられた82分であるという印象をぬぐうことが出来ない。観終わった後にも観客の中に持続する不可解さはそこにはなく(そのような世界との持続が架橋されてこそホラー映画は本当にホラー映画足り得るのではないか)、ただ辻褄合わせという形で乗り越えられてしまった不可解さが物語の残骸として横たわるばかりだ。乗り越えられてしまった不可解さは、単なる排出されてしまった廃棄物でしかない。幽霊の、正体見たり、枯れ尾花、というわけだ。しかし本当は話は逆でなければならず、枯れ尾花の正体こそが、不可解さという幽霊でなければならないのだが。

物語の残骸。廃棄物。ついでに言えば、そこにはただの寄せ集めの要素ばかりが並ぶだけで、映画自体をもっと実質的な闇の混沌へと接続するモチーフとしての生命も息づいてはいない。一つ具体的に言うなら、たとえばあの母親や主役(?)の少女のとってつけたような神様信仰は、「神」の一語で両者の信仰(?)を同一視してしまうような乱暴な(浅薄な)感覚でしか描写されていない。モチーフが表層のモチーフとしてだけ自己完結して、観客の無意識にまで及ぶような深層へのイメージに欠けている。それは、映画への野心の不足の現れであり、端的な意欲の不足だと思う。

ところで、ポスト黒沢清うんぬんは誰が考えついた宣伝文句なのだろう。黒沢清本人には承諾を得ていたのだろうか。それともこういう使い方なら、承諾も要さず勝手に名前を使ってもいいものなのか。とにかく、紛らわしい宣伝はなしにして欲しいと思う。

(評価:★2)

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