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[コメント] 空気人形(2009/日)

敢えて言えば、今更、なんだ。みんながみんな「空っぽ」だ、なんて。でもほんとうのほんとうにそうなのか? その先の物語は語られないのか? この一見美しい寓話に仕立てあげられた自己完結した物語に感じるのは、そういう欲求不満だった。しかしペ・ドゥナさんのダッチワイフぶりには参った。〔3.5〕

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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ペ・ドゥナは年齢不詳の可愛げな風貌ではあるが、けれども同時にそれなりにナイスボディでもあった。そんな彼女が演じることになる心をもったダッチワイフは、確かに心をもったダッチワイフそのものであった。ある意味そのぎこちない身体動作は、映画創成期からの映画の記憶を継承している(想起させる)とも言えるかも知れない。たとえば自分の希薄な映画に関する記憶の中からでも想起されるのは『メトロポリス』の人造人間。あるいは主題的には『ブレードランナー』のレプリカントを想起させなくもない。人間によく似た、だが人間ならざるもの。つまりそれは何者かと言えば、結局人間の映し鏡なのだろう。

だが、それがそれなりの独自の歴史的背景をもたない場合は、それは単なる寓意の木偶人形と化してしまうのではないか。何の理由も説明もなく唐突に心をもってしまったダッチワイフは、勿論歴史的背景をもたない。故にそれは、予め定められた寓意以上のものを示し得ない。そこで思うに、そも歴史とは、その存在が本来からして(存在論的に)「空っぽ」そのものである人間が、しかし中身を獲得し得る唯一の縁なのではあるまいか。歴史は、人間を生んで、人間を活かす。そしてその人間が歴史を変える。歴史とは意味であり、意味とは歴史なのだ。しかしこの寓話のダッチワイフ=空気人形には、予め定められた「空っぽ」という形の寓意しかなく、それ故にそれは変容の契機を予め欠いている。

そんな「空っぽ」を中心に置いたこの寓話は、だから予定調和に陥らざるを得ない。空気人形は空気のようにただ存在し、かつ存在しなくなる。点景描写的に示される人間達の群像は、遂に線として繋がることも、面として広がりをもつこともなく、ただ徒に寓意の予定調和の枠組みに回収されざるを得ない。それはあるいは、現代の人間達は歴史(意味)を欠いている、それ故に「空っぽ」なのだということなのかも知れない。しかしじつは「歴史(意味)を欠いている」ということもまた、それ自体歴史的意味なのだ。つまり、「空っぽ」という状況論には外部があるのだ。

寓意の予定調和に安住し、そこで自足してしまっているこの物語には、だから意味がない。端的に意味がない。「意味がない」ということの意味を確認するとは、今更、ではなかろうか。閉塞を本当に意識する者は、その外部を志向するものだ。この物語にはその志向が見えない。

(評価:★3)

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