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[コメント] WALL・E ウォーリー(2008/米)

CG映画は相変わらずかつての遺産を“反復”することしかできないんじゃないか、という疑念。御都合主義的心理化としての擬人化。人間のドラマの模倣によってしか絆を確認出来ないロボットが描かれるのは、その観客が人間でしかないからだ。そして辿り着くのは新しき「植民地」。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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ロボットの「目」、あるいは「手」、あるいは「足」、それらが有機的に「機能」して「物語」に寄与している。確かにそうだと思う。しかし結局そこには「機能」しかないのではないか、という感覚も一方ではしてしまう。というのは、そこにはそれ以外の余剰の如きモノは結局見出せないからだ。俗言に「神は細部に宿る」などと言われるけれども、この映画のロボットのそれら「機能」は、果たしてそんな「細部」にあたるのだろうか。個人的に愚考するに、むしろ「細部」とは、たとえばそれが映画ならば、物語に寄与する「機能」から逸脱した余剰にこそあたえられるべき言い方ではないのか。物語に寄与する「機能」としてしか意味を見出せないモノは、物語の「部分」ではあっても、決して「細部」ではないのではないか。

ソツなく「物語」を語る為にだけ存在する「部分」、それはそんな「部分」だけで構成された仮初の主体(この映画に描出されるロボット達)をすら、やはり物語の「部分」にしかしないのではないか。そう考えれば、たとえばこの映画が、「700年間独りぼっち」などというようなキャッチコピーを触れ回りながら、結局そんなものを描出することは出来なかったことの意味も判るように思える。「700年間独りぼっち」などという状況は、性急な「物語」の要請からすれば全くの余剰であって、つまりは無駄だからこそ、それは描出することが許容されなかったのだ。だが恐らく本来的な意味での「細部」とは、むしろそのような時間の中に現れ出ずるものであった筈だ。

たとえばここで想像してみるに、「700年間独りぼっち」な状況を具体的に描出することは、一見した処の「物語」に寄与しない、茫漠としたロボット(主人公ウォーリー)のロボット然とした活動をだけ映し出し続けることになるだろうが、しかしそれは、それこそがむしろ性急な「物語」の要請から対象を析出することになり得たのではないか。つまり「物語」を一旦徹底的に無視することで、逆説的に「物語」を超出する尊厳、言わば本当の〈物語〉を対象に投影し得たのではないか。本当の〈物語〉とは、つまり観客が映画の中に自ら発見する物語のことだ。そしてそれこそ、「神は細部に宿る」という言葉の本当の意味でもある筈だろう。

言わば、ここには真正な意味での〈神〉は不在なのである。〈神〉は不在のまま、ただかつて存在した「神」がいまだ存在するかのような既成の「物語」だけが機能している。(神は魂と言い換えてもいい。魂とは意味からはみ出した形而上の観念=余剰である。)だからこそロボット達は、どこまでも人間的な「物語」の「機能」をその「部分」として反復することしか出来ない。(ロボット同士が結ぶことになる絆の形はかつてのリアルな人間達の映像によって予め約束されており、また現在の人間達の地球回帰の物語もまたやはりリアルな人間達の映像によって予め約束されている。)そこには予定調和だけがあり、言葉の本当の意味で言う処の〈新しい〉瞬間はどこにもないとしか言うことが出来ない。

(評価:★3)

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