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[コメント] すばらしき世界(2021/日)

すばらしき世界とは、こういう映画が観られる世界のことだ。
のぶれば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







前知識はほとんどなかった。『鬼滅の刃』の上映前に流れた予告編で観ると決めた。役所広司が殺人犯で仮釈放中の生活を描いた『うなぎ』(1997年)を彷彿させる一方で、『うなぎ』とどう違う殺人犯なのかをどうしても観たくなったのだ。

果たして、『うなぎ』の山下と『すばらしき世界』の三上とは全然違っていた。ある意味、真逆とも言えるだろう。二人は元殺人犯という点で共通しているものの、生き方は大きく違う。自分の過去を隠そうとし続けた山下と、自分らしさを出さずには生きられない三上。役所広司という役者は憑依術でも持っているのかと思うほど、『うなぎ』では山下に、『すばらしき世界』では三上になり切っていた。

三上を取り巻く人々の演技も良かったのだが、役所広司の演技があってこその好演だったと思う。役所広司が三上に息を吹き込み圧倒的な存在感を出したように、まるで三上が他の出演者に息を吹き込んだように感じるのだ。最初は嫌味に思えたケースワーカーも、ネタにするために近づいた小説家志望の青年も、万引きを疑った店長も、三上の人柄を知るにつれ、彼と関わらずにはいられなくなる。三上はそれだけ説得力ある魅力を放っていた。その魅力は、悪意の顔をした人でも、善意の手を差し伸べたくなるほどのものだ。

だから、断言する。『すばらしき世界』とは、深い優しさをもった人々のいる世界を指しているのではない。むしろ、三上のような人がいる世界こそがすばらしいのかも知れない。人は誰しも、善意と悪意を併せ持ち、ともすれば悪意で人に接してしまうこともある。だからこそ、善意を尽くしたくなる人と出会えることで世界をすばらしく感じさせるのかも知れない。

悪意に対して暴力で解決することに喜びを感じる三上をすばらしいとは言えまい。しかし、それでも懸命に生きるその姿に惹かれるのは何故か。一方で作品のラスト近く、いじめをする職員への暴力を思いとどまる三上に対し、本当にそれでいいのか?と失望にも似た感覚が生じたのは何故か。

私の心のどこかに三上の暴力に憧れがあったと気づかされた瞬間だ。その動揺が治まらぬうちに、施設の職員が集まって話をするシーンへと続く。

いじめをしている職員の話に胸がざわつく。悪意の塊のように思えた先程までとはまったく違う仕事への思い。けれども、その奥に悪意が潜んでいることも伝わってくる会話。誰かを蔑んで笑い、同じ笑いに誘う空気にひるむ。人の悪意と善意は混沌としていて、善意の顔をして悪意を吐き出すなんて日常茶飯事だ。

そういえば、三上を支える人達は、かつて三上に疑いを持ちつつ彼と距離を縮めて、善意の手を差し出した。一方、三上の仕事の同僚は、三上とある程度の距離を保ったままにして、悪意を吐き散らす。しかしそれは、善意の手を差し出した人たちが三上に距離感を保つのが大事だと言っていた世界でもある。

ここに至ってようやく気付く。人と適度な距離感を保つことが本当にいい生き方なのだろうか。そしてまた、保つべき距離感と無関心とにどんな違いがあるのというのだろう。

この世は自分らしく生きることが難しい。 だからこそ、自分らしく生きようとする人に憧れるのかも知れない。 或いは、自分らしく生きられない人を蔑み攻撃するのかも知れない。

この世は善意だけで生きることが叶わない。 だからこそ、憧れの人に自分の善意を傾けたくなるのかも知れない。 或いは、蔑む人に自分の悪意を吐き散らしてしまうのかも知れない。

結局、映画は素晴らしき世界がどんな世界なのかを示すことなく終わる。まるで、三上の母親探しのように。

そして思う。 そうか、答えのあることがすばらしいわけではないのだ。答えを探し続けることがすばらしいのだと。だとしたら、それを教えてくれる映画に出会えたこの世界もすばらしいと言っていいはずだ。すばらしき世界はきっとここにある。答えはわからないけれど、この世界でそれを探す価値はあると思えたので候。

(評価:★5)

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