[コメント] わたしの叔父さん(2019/デンマーク)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ジャック・タチみたいなタイトルですが、主役は「叔父さん」ではなく「わたし」です。 「わたし」が14歳から12年間、「叔父さん」と二人で暮らしていることが徐々に明らかになります。 阿吽の呼吸で暮らす二人の日常が淡々と綴られますが、「わたし」の出会いで変化が生じます。
特に朝食のシーンが顕著ですが、同じような日常でもカメラ位置が変わります。 そして、デート後、最初で最後唯一のBGMが流れます。 それまでブツ切りのようなカット繫ぎで(文字通り)切り取られていた日常が、BGMに乗って流れるように描写されます。 そして、いろいろあって元に戻った後の朝食シーンは、最初と同じアングルで撮影されているという仕掛けです。
食卓のテレビではニュースが流れています。 「サミット」「デモ」「移民」「トランプ」「北朝鮮」etc...世界は広いんです。
こんなデンマークの農村でも、世界のニュースに触れています。
皆さん、どうですか? タイムラインの中だけで暮らしていませんか?
この時代にスマホを持っていなかった主人公の姿に、ふとそんなことを思いました。
この映画は、「自分が必要とされることは何だろう?」という「自分の役割探し」の物語なのではないかと私は思います。 叔父さんの介護なのか、獣医(助手)なのか、恋人なのか。
自分の居場所探しとも言えますが、彷徨ったり迷走しているわけではない。 理想と現実の話とも言えますが、そのギャップに悩んだり苦しんだりしているわけでもない。 彼女は、「広い世界」の中で、「自分を必要としている場所」を探し、「自分らしい生き方」を探しているのではないでしょうか。
一方「叔父さん」も、自分が彼女の生き方を狭くしているのではないかと考えます。 そして少しずつ、彼女を手放そうと努めます。まあ、デートには同席しちゃうんですけど。
前述した、朝食の食卓に代表される「同じ日常に見えるけどカメラアングルが異なる所からまた元に戻る流れ」は、「叔父さんのわたし離れ」ともリンクするのです。 もちろん、まるっきり元に戻るわけではありません。 これから先、年月を経て、いつかこの関係もテレビと同じように壊れる日が来るのかもしれません。
先にニュースの話を書きましたが、移民・難民と障害を抱える叔父さんとリンクした「厄介を背負う話」かと、実はちょっと思ったんです。 でも違いました。 「思いやり」と言ってしまうとチープですが、「わたし」と「叔父さん」は互いを思いやる優しさで結び付いているのです。 世界はこんなにギスギスしたニュースが溢れているのに。 もしかすると監督は、「世界にはもっと思いやりや優しさが必要だ」と言っているのかもしれません。
余談
小津にインスパイアされたというふれこみですが、それほど小津的でもないと思うんですよ。「年頃の娘を嫁に出すだの出さねーだの話」ということと、食卓の有効活用は小津の影響があるかもしれませんけど。 ただ、まあ、現代で小津をガチリアルにしたら「介護問題」は避けて通れないのかもしれません。
(2021.02.22 恵比寿ガーデンシネマにて鑑賞)
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