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[コメント] サマ ZAMA(2017/アルゼンチン=ブラジル=仏=スペイン=スイス=米=ポルトガル=オランダ=メキシコ=レバノン)

9年のブランクが徒に過ごされたわけでないことを、画面の端々に感じさせる渾身の第四作。セルバンテス、カフカ、コンラッド、バルガスリョサ、雨月、8 1/2、ブンミ翁等々様々な固有名詞が頭を過る。フィクスの画面に周到に配置された人物の間合いが植民地の社会関係だけでなく、単身赴任の役人の精神状態を霊妙に反映しており、先住民の襲撃シーンなど(ブラッド・メリディアン入ってる*)活劇に際しても傑出したセンスを閃かす
袋のうさぎ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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ものの記事によれば、原作に加えられた最も顕著な改変のひとつは、先住民や黒人奴隷たちの扱いだという。20世紀中頃の白人作家の筆によるものでは、植民地社会の日陰者は、背景の書割程度の配慮しか与えられなかったのに対して、映画ではほとんど幽霊のように画面にとり憑いて離れない。型通りの台詞しか口にしない黒人伝令さえ、神話のフィギュア的な肉体美と目に見えず耳に聞こえない足取りで現れる《未開人》の不思議なアウラで、横暴で神経症的な屋内生活者(その大半は白人官僚や旅回りの商人、彼らによって深窓に押し込められる有閑子女である)の意表をついてやまないのだ。

旅行会話に毛が生えた程度のヒアリング能力しかない私にしてみれば大きな目こぼしだったのだが、劇中で使われるスペイン語のアクセントや方言も、発言者の生まれや身分を反映して、相応の変化がつけられているそうだ。日本語でいえば、変なガイジン訛りとくだけた関西弁、スーズ―弁、形式ばった文語表現、古めかしい公家言葉など、狭い村社会のなかで、何の分け隔てもなく飛び交う感じだろうか。同じことは、様々な出自の人間が、ひとつの構図のなかで異なる時空間の束のように重ねられるスリーショット、フォーショット、あるいは先行者の背中を追って重く淀んだ空気に沈潜するようにゆらゆらと進む移動撮影などでの画面構成においても見受けられる。某雑誌の批評文で、それは、未開地に根を下ろして日が浅い植民者の階級関係の一時的な混乱を現わしているという指摘があったが、なるほどと膝を打った。同じことが今日の駐在員社会についても言えるかもしれない。特に僻地に行けば行くほど、同国人の頭数が少なくなればなるほど、本国では見られない不思議な付き合いが発生するような印象を抱くのは、果たして、私だけだろうか?

そして、通気弁も満足にない閉鎖空間での位置関係は、時として、思わぬ遠近法の歪みや嵩の膨張を生じさせ、第三者の視点で画面を追っているつもりの視聴者を煙に巻くことになる。娼館らしき軒下の土間から覗かれる厩舎の薄暗がりの、この世のものらなぬ馬鹿でかい馬の図体など(そしてその巨根、もとい!そのでかっ腹をなまめかしげに愛撫する娘!)、マジックリアリズムらしきものの遺産がさり気なく差し込まれる。

征伐隊が先住民に拉致されてからの尋問と聖別化?の一連のシーンは、『食人族』や『グリーン・インフェルノ』が90分かけて試みていることを、わずか数シークエンスで成し遂げている。まさにこの世の閻魔庁というべき近代精神の深層の驚くべき現出化だ。

*もちろん、ゴアのほうじゃなくて、あの神がかり的なビルドアップの話です。こちらは前夜の予兆から(狼の時刻に征伐隊のキャンプに現れる亡霊のような全盲の!流浪民の群れと解き放たれる白馬の神話の動物のような佇まい)、仮面の使者との不思議な出会いを経て("Está fantasiado"という奇怪な台詞が口にされた瞬間に、水を打ったような麻痺状態が訪れる)、最終的な湿原での邀撃へと、二日に分けられているが、同じような効果を狙っていると信じる。つまり、文明から野蛮への越境だ。

(評価:★5)

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