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[コメント] ジョゼと虎と魚たち(2003/日)

“きみは運転もうまいし、ひとりでいるのが好きじゃないか”                                                         “1年ののち” F.サガン
ケネス

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







横断歩道を渡る前に既に大行列が見える。 係員の持つプラカードには「2時間待ち」の表示だ。 半年ほど前の上野は芸大美術館の“法隆寺−祈りとかたち”には並ばずに入れたが、こちらはテレビでも特集された“国宝展”、小春日和の日曜は予想通りの人出とあって諦めざるをえない。 諦めて帰るんじゃなく、諦めて並ぶんだが。 芸大の“法隆寺〜”にも多くの国宝・重文は来ていた。だがこの混雑の差は何だろう。 まあいい。話し相手もいない行列待ち、列さえ離れなければ、どのような思考の翔佯も自由なのだ。

半年ほど前に訪れた“法隆寺展”は、聖徳太子像目当てのことだった。 童子の聖徳太子立像は、僅か二歳で誰に教わることもなく東を向いて合掌した太子を模した、かわいらしい立像である。 「かわいらしい」というのは大方の観覧者の素直な印象であろうから“かわいらしい”と書いたが、古代史に詳しい者なら、聖徳太子像はなぜどれもこれもが童子なのかについて知見を持っているだろう。「かわいらしい」と形容する識者はいないはずだ。

聖徳太子は古代史最大と言っていい謎の大物で、邪馬台国と聖徳太子について渉猟するのが古代史マニアのまずは正しい姿であるといっていい。 そもそも聖徳太子という名前は、死後100年以上も経ってから付けられた名前で、言ってみれば、井伊直弼の諱を現在名付けることと等しい。

いや、等しくはないな。 本名が隠されてきた人物に100年後に名前を付けました。それが“聖徳太子”です、ということだ。 では、本名は何かというと厩戸皇子で、これは馬屋で生まれたからというが、おいおい、それってイエスのことだろうというツッコミはもっとものこと、聖徳太子が活躍した推古天皇の時代は西暦で数えれば優に600年、イエス・キリスト伝説が日本に伝わっていたと考えて何も不思議はない。 最近の教科書では聖徳太子という名は括弧の中に入れられ、「厩戸王(聖徳太子)」と書かれているのだ。

この国立博物館へ到る道中、“上野を世界遺産に”という幟を見かけたが、日本最初の世界遺産と言えば法隆寺で、これは言うまでもなく聖徳太子ゆかりの寺院である。 聖徳太子がらみならではと言うべき謎の多き建造物で、古代史マニアなら必ず一家言を持つことは先程述べたとおり。 法隆寺の七不思議は江戸時代に流布されたもので「蜘蛛が巣をかけない」だの「蛙の片目がない」だのオカルト臭芬々で、今日の考察に値するものではないが、焼失と再建の謎や、秘仏・救世観音像については今なお古代史マニアの探究眼を釘付けにしている。 再建の謎、フェノロサによる秘仏開陳のエピソードはネットに幾らでもあるからここでは書かない。法隆寺の七不思議に日の目を当てたのは梅原猛“隠された十字架”で、今日の実証的再検証から見れば分が悪い点はあるものの、法隆寺が出雲大社と同類とは卓見中の卓見であり、梅原版法隆寺の七不思議は燦然と輝く。

さて、“ジョゼと虎と魚たち”の話である。 法隆寺七不思議の如く、この作品には実に謎が多い。種々レビューを繙いても、あれがわからない、これがわからないのオンパレード、これほど観客を「??」のモヤモヤに導いた映画も珍しいのではないか。本作を難解映画のリストに入れる御仁はいないと断定出来るほど、若者たちの身の丈を描いた映画であるにもかかわらず、だ。

というわけで、梅原版法隆寺七不思議に倣って、ケネス版“ジョゼと虎と魚たち七不思議”を纏めてみた。

謎1:「ラストシーンが二つある」

謎2:「恒夫(妻夫木聡)はどうして親戚の集まり(法事)に行かなかったのか」

謎3:「原作では上手くいっている二人が、映画ではどうして別れたのか」

謎4:「どうして水族館は閉まっていたのか(犬童一心監督の疑問)」

謎5:「ジョゼ、虎、魚たちとは何の寓意なのか」

謎6:「幸治(新井浩文)に対して、ジョゼはどうして母親気取りなのか」

謎7:「(ケネス私的)名場面はどうして香苗(上野樹里)のシーンばかりなのか」

以上である。 とは言え、何しろ「???」が多い映画だ。 サブの謎も多い。であるから、それらの小クエスチョンも適宜、この大謎の中に入れて解答を試みようと思う。

謎1の「ラストシーンが二つある」。 ラストでジョゼは電動車椅子を手に入れ、颯爽と走っている。併走するカメラ。 疾走するジョゼの画がいきなり切れてカット変わりをして、くるりの“ハイウェイ”と共にエンディングロールが始まる方が断然かっこいいはずだ。カタルシス的にも。 だが、蛇足のように独り静かに鮭の切り身を焼くジョゼの姿が映し出される。 謎のラストシーン。 この映画には、トーンが全く異なる二つのラストシーンが直列に繋がれている。

謎2は、恒夫がジョゼから手を引く(撤退する)決意の瞬間の我々の目撃についてである。 弟との電話のやりとり「兄ちゃん、ひるんだと?」を額面通り受け取れば謎は謎でなくなるが、どうして恒夫が「ひるんだ」かの謎を追う。

謎3は、ネットで一番多く見られた疑問と言える。

謎4は、犬童一心監督自身の疑問で、脚本の渡辺あやに直接その意企を訊いてはいないようだ。

謎5は、タイトルについて。 これを俺は当初デペイズマンだと思っていた。 だがそうでは無かった。“ジョゼ”と“虎”と“魚たち”に共通する通奏低音が全編に渉って流され続けていたのであり、その通奏低音こそが謎を解く毘佐となる。

謎6は、養護施設以来の疑似姉弟たるジョゼと幸治の関係から、そもそも“ジョゼとは何者なのか”という謎を追う。

謎7は、俺自身の私的な疑問とも言える。 俺がこの映画における途轍もない名シーンと感じたものが3つあって、第一は坂でのジョゼと上野との邂逅&ビンタシーン。 第二は見られたくなかったキャンペーンガールのコスチュームのまま入った喫茶店での上野の泣き笑いシーン。 第三は国道の激しい車の往来ナメの、ジョゼとの別れを決心した恒夫と上野が歩くシーン。 車の騒音にかき消されそうな中で聞き取れるのは、恒夫の好物を頻りに訊く香苗の手詰まりな気遣いである。 つまり、全て上野樹里がもたらしてくれたシーンに俺は感動していた。 これは勿論、池脇、妻夫木の演技よりどうのということではない。 池脇、妻夫木という主役陣の素晴らしさは当然のこととした上での驚きの表明と考えて欲しい。

さて、それでは謎解きの旅へと出るとするか。列は動かず、まだまだ先は長い。

謎1:「ラストシーンが二つある」。 謎の二つ目のラストシーンは、一つ目のラストシーンが“動”であるのに対して徹底的に“静”のトーンで通されている。

その“静”的な印象を決定づけているのは、綺麗に片付けられた部屋、後ろできちんと結わえられた髪、アップになる焼き鮭である。 綺麗に片付けられた部屋については後に触れるとして、ここではまず印象的なジョゼの結わえられた髪について考えることにしよう。

「結は閉じることに通ず」と言えば、まるで“和風総本家”で出される問題のようだ。 風呂敷も水引も、“結う”とは、“閉じる”ことを意味する。 “閉じる”ことによって、封印され魔除けになったり、外界と隔絶されることによって、中の結びつきが深まるのである。

ここでのジョゼの髪は後ろで“結わえられている”(勿論、劇中初めてのことだ)。 部屋が小綺麗になっているのも、斎戒を匂わせる。 着ている物も赤のセーターであり、恰もジョゼは巫女のようではないか。 なんて、結論を急いではダメだよ。思い付きはすぐに口にしてはならぬ。 結論を急いては事をし損じる。補助線をもらうことにしよう。

ここでのジョゼは、“檻に入れられた動物”として描かれている、という線が濃厚だ。 サーカスなどで訓練されたトラ、ライオンを英語の形容詞で言えばtame。

 :a tame lion 飼い慣らされたライオン weblio英和辞典からtame。

「飼いならされた、人になれた、おとなしい、柔順な、すなおな、無気力な、ふがいない、精彩を欠く、力の乏しい、単調な」

そう、ここでのジョゼを形容すれば、まさにtameであることに留意して欲しい。 「無気力な、精彩を欠く」という意味まであるのだ。 そしてアップになる焼き鮭の切り身。 一体これは何だろう?

骨、だ。鮭の切り身は、魚食の中では刺身に次いで骨を気にせずに食べられる常食のおかずだろう。だが骨、だ。 この後、ジョゼは僅かに残った骨を抜いて食べることになるに違いない。 骨抜き。

weblio英和辞典からcastrate。「去勢する、(…を)骨抜きにする」

謎の(真の?)ラストシーンで、ジョゼはtamed and castratedになった姿を晒している。 これが補助線、通奏低音というわけだ。

謎2:「恒夫(妻夫木聡)はどうして親戚の集まり(法事)に行かなかったのか」

法事に参加している弟のタカシとの電話で恒夫は「兄ちゃん、ひるんだと?」と言われ、何も言い返せずに電話を切る。 これを字義通りに受け取れば、なるほど恒夫は“障害者の彼女をフィアンセとして紹介することを躊躇した”となるのだろうね。

ネットに「恒夫は障害を持つ恋人が面倒くさくなって捨てた。酷い映画」という感想があって目を剥いて驚いた。 「兄ちゃん、ひるんだと?」を字義通りに取ってしまうと、こういう恐ろしい感想を口にするようになってしまうのだなあ。

だからぁ、これは字義通りにとってはならんのだよ。 思い出して欲しい。同じタカシが、「身障者の彼女連れて帰るとか、感動もんやん。うちの親、絶対好きと思うよそういうの」と言ったのを。

恒夫とタカシの親はスーパー物わかりがいいようだ。リベラル。また、都会に出た子らを案じて、食べ物を定期的に送るような律儀全い親。 ジョゼを引き合わせるのに、親は全く障害ではない。口さがない親類縁者など放っておけ。親がいいって言うんだからいいじゃないか。 こんなに心強い援護者がいて、どうしてひるんだと? 恒夫よ。

答は、シャコタンの族車にある。幸治の愛車だ。 え? 族車を親戚に見られるのが嫌だから法事を避けたって? ば、か、言うな。 それが、借り物だからだよ。恒夫の持ち物ではなく、借りた物だから。 これが、恒夫が法事に帰れなかった理由だ。

謎3:「原作では上手くいっている二人が、映画ではどうして別れたのか」。 ほんと、ネットには色々な感想があって、感心したり呆れたり、玉石混淆なのはいうまでもない。 小学生や中学生でも、映画を観た感想をいっぱしに他人に向けてネットに上げちゃうんだから、こっちはまあ、読みたくなくても読まされちまうってわけだ。 そんな中に「ラストで恒夫は号泣してたのに、冒頭では吹っ切れていて頭に来た」ってのがあって、随分入れ込んで観たんだねと生暖かく読み過ごそうと思ったのだけど、「男ってのはそういうもんなんです」なんて頓珍漢なレスが付いているのを見ると看過出来なくなっちゃうんだよな。

冒頭で恒夫が吹っ切れていたのは、徹底的に負けたからなんだよ。完膚無きまでに一敗地に塗れた。 余りに大きな相手に負けた完全な負け戦だからスカッと吹っ切れているのさ。 だからこそ、もう二度とジョゼに会うことはないと宣言出来たんだぜ?

原作を読んだことがある人なら、「原作では上手くいっているふたりが、映画ではどうして別れたのか」という疑問は当然抱くに違いない。 だって、ハッピーエンドがアンハッピーエンドにまるっきり180度転回されちゃってるわけだからさ。

どうして田辺聖子の原作ではふたりは上手くいってたんだろう。 話はジョゼの翌年(2004)にTBSで放映された“オレンジデイズ”へと飛ぶ。 勿論、ブッキー主演だから“オレンジデイズ”に話は飛ぶわけなんだけど、ここでのブッキーのお相手は柴咲コウ演じる萩尾沙絵で、彼女は耳が聞こえない。 沙絵は聾唖のヴァイオリニストだ。PC的に言えば聴覚に障害を持つ人だね。 聴覚に障害を持つから彼女もブッキーも手話を使う。おやおや? ブッキーは障害を持つ女性に縁があるみたいだね。

ブッキーの前に現れる女性は、硬い殻に入って現れる。 そう、彼女たち(ジョゼと沙絵ね)は実に頑丈な鎧を着ているんだ。 というより、武装している(armed women)と言った方がいいかも知れない。 勿論、armedな理由は彼女たちが障害を持っているからだ。 “ジョゼと虎と魚たち”でも“オレンジデイズ”でも、ブッキーは、armed women をdisarm (武装解除)する役柄である。役柄というか、これはもう、妻夫木聡という俳優の持つ特技だろうね。 では、なぜ女たちは障害を持って現れるのだろう。

ここからはちょっとした思考実験だ。おせいどんの頭の中をシミュレートする。 新憲法になって、前近代の制度の悪弊は一つ一つ撃攘されるようになった。 その中での大物は“家父長制”で、これは女を家に縛り付ける悪弊中の悪弊とされた。 「女を“家”に縛るな」は、家族制度そのものへの疑義、破壊へと移り、女も外で働く、働けることの権利が声高に叫ばれた。 今日、それは男女雇用機会均等法として一定の成果を上げたように見えるが、こんなものは単なるお為ごかしのお飾りだ。 あるに越したことはないが、あるからと言って女性が生きやすくなったわけでもない。 おせいどん田辺聖子はそれを見越していたのだろう。 男女雇用機会均等法が制定されたのは、原作“ジョゼと虎と魚たち”が発表された翌年(1985)のことだ。 原作に横溢する約しく慎ましく、微笑ましい匂いは、“だんなはんにやしのうてもろうのがそないに悪いことでっしゃろか”というおせいどんの呟き、諧謔の香りである。 女権を拡張し、主婦の家事労働を賃金化し、男が外社会で得ているのと同様の経済行為に参画することが可能になっていく世の中に取り残される人々は必ずいる。 “庇護”を必要とする人に対し、旦那が庇護をもたらすことは悪いことだろうか、というのがおせいどんの思いであり、それが原作においてふたりがハッピーエンドになっている理由である。

だが、映画“ジョゼと虎と魚たち”はその逆を行った。 何しろふたりは別れたのだから。180度の転回。 でも、そうするにはそうするだけの相応の理由がちゃんとあるのだ。 と、仄めかしつつ第4の謎:「どうして水族館は閉まっていたのか(犬童監督の疑問)」へと移る。

ジョゼは「海へ行け」と言う。命令だ。 どうしてジョゼが海へ向かうのかは、ちょっと気の利いた民俗学囓りなら“蛭子信仰”なぞを持ちだして来て我が意とばかりに得意満面になるだろう。だが、俺はそんな凡庸なことは言わない。 と、その前にサブの謎:「どうしてラブホのシーンで、CGの魚が出てきたら引いた客が多かったのか」に答えておこうと思う。

この疑問は犬童一心監督自身の疑問だ。どうやら監督にそれを伝えた勇者がいるらしい。「あのCGの深海魚はどっちらけだったよ」と。 そう言われても、作品は監督のモノ、俺の演出がわからない奴は黙っとけ、と気炎を上げてもいい。 だが、犬童監督は困ってしまった。あの演出はまずかったのか。でもどうしてだろうと。監督のこの気弱な真摯さが、“ジョゼ”を名作にした理由の一端であることは言うまでもない。

それは、監督が作品を製作の側から観客に上意下達の如く“教えた”のではないという証左だからだ。 監督が注意深く“観客”の側にいることに留まり、その結果、映画自体が一人歩きをして彼岸に行ってしまう。 それこそが薄靄の中から名画が立ち上る瞬間と言える。 ラブホテルの室内に唐突に現れた魚の合成映像に興を削がれたという“観客”の嘆きは、観客がこの映画を“自分の側にいてくれる映画”として暗黙の了解を得たと信じつつ鑑賞していたにもかかわらず、不意にそれが裏切られたという幻滅の表明である。

あの合成で不意に監督は、ジョゼの姿を“見せてあげる”立場に登ってしまったのだ。 だって、あれは深海魚=ジョゼという子供でもわかる寓意だもの、そんなん態々言われんでもええわ。 だから観客は、「何だよ、監督は俺等と同じ視線で、ジョゼと恒夫を目撃してたんじゃないのかよ」と不満を口にしたのだ。

どうして水族館は閉まっていたのか、というのも犬童一心監督自身の疑問である。 水族館を閉めたのは渡辺あやだから、訊く機会はあるだろうに、どうやら尋ねてはいないようだ。 喉に引っかかった小骨のようなこの謎について、監督は考えたと思う。これは自分に出された宿題なのではないか、と。

水族館が閉まっていた理由。 それは、“魚たち”に課せられた寓意を再確認するためである。 “野生の魚”というのも変だが、“水族館で飼われている魚”に対立する反対語は、“野生の魚”ととりあえずは定義しよう。 だが、おそらくは海で泳いでいた野生の魚たちは、捕獲されて水族館の水槽に移されても、それほど閉塞感や絶望感は感じていないはずだ(魚の気持ちに完全に同化は出来ないので、あくまで想像に過ぎないが)。

これは勿論、人間の勝手な投影に過ぎないことは承知の上で言うが、アフリカの大地から連れ去られてきたライオン、象、キリンは自分が動物園にいることを違和感として感じている(はずだ)と思う。 彼等は、自分が檻に入れられていることを感じ取っている(はずだ)。 檻に入れられた動物たちを見て、子供達が「かわいそう」と思うのは傲慢だろうか。 “野生の魚”と“檻の中の魚”。 檻に入れられた魚(水族館の水槽にいる魚)は、檻に入れられた動物園の猛獣たちとは違って、それだけでは“野生を骨抜きにされた状態(tame化、castrate化、栽培化)”とは見えない。 だから、もう一段“骨抜き化”を施される必要があるのだ。 生命が抜かれ、ラブホの狭い室内に灯明化され、徹底的に“骨抜きされた憐れな偽の魚”として。 それゆえ、そこに生息する魚はあくまで死んだ体でなければならないだろう。 恰も生きているかの如く、悠々と泳ぐ魚の姿を見せられては観客は違和感を感じざるを得ないわけだ。 ここにも、ラブホの室内に唐突に出現した魚の合成映像にどうして観客が幻滅したのか、という謎を解く喉の骨が刺さっている。

ここまで来れば、謎5の「ジョゼ、虎、魚たちは何の寓意なのか」はほぼ明らかだろう。 虎が登場するシーンをもう一度、見直して欲しい。 屋外展示場を悠々と歩き回る虎の画などではなく、あまりにがっちりとした強固な“檻”越しに虎は登場する。 “虎は檻の中にいる”。

「水族館はなぜ閉まっていたのか」で見たとおり、開いていれば当然見られたはずの魚たちの姿は結局、ラブホの淫靡なインテリアとして現れる。 これは“檻に入れられた魚たちのなれの果て”の姿だ。 “魚は檻の中にいる”。

謎のラストシーンの、「綺麗に片付けられたジョゼの部屋」が意味することもこのことだ。 謎の二つ目のラストシーンをもう一度、見直して欲しい。 綺麗に片付けられた部屋にいるジョゼを取り囲んでいる物はなんだろうか。 手前も奥も、格子である。格子を強調する画作りのために、一切の夾雑物はわらわれているのだ。 格子が“檻”の暗喩であることなど今更言うまでもない。 “ジョゼは檻の中にいる”。

“ジョゼ”と“虎”と“魚たち”に共通する通奏低音が全編に渉って流され続けていたと言ったのはこのことだ。 彼等は皆、“檻の中にいる”のである。

その“檻”からジョゼを解き放そうと手を尽くしたのが恒夫であった。 どうやって? 謎2:「恒夫はどうして親戚の集まりに行かなかったのか」を解く際に、シャコタンの族車が借り物であることが恒夫をして、法事へ行かなかった理由とした。 ジョゼを“檻”から解き放つために恒夫が用意した物は何だったろうか。 スケートボードを取り付けた4×4輪乳母車。 幸治から借りた族車。 おんぶ。 これだけだ。 ジョゼの“足”の代わりとして恒夫が用意出来たものはこれだけ。

一方、恒夫と別れたことによってジョゼが手に入れた足は海外製電動車椅子だ。 恒夫の経済力では到底与えることが不可能な“ジョゼの足”。 恒夫が常用している原付50ccバイクは二人乗りが出来ない。そして乳母車は修復不能にしてしまったから、恒夫が借り物でなくジョゼに与えることが出来た最良の足は、おんぶのみ。 これをジョゼが、何よりも気に入ってくれれば恋愛は成立し続けた。never last.

だが、おんぶという、恒夫がジョゼに提供出来る唯一無二の足は喜ばれなかった。 閉まっている水族館の前で、恒夫が提供した“望外の贈り物”を、ジョゼは幼子のようにだだをこねることでお釈迦にしてしまったのだ。 恒夫の背で妖怪の如く重い石と化してしまったジョゼ。ネットにこのジョゼの姿を「おんぶおばけ」と称した評者がいたが、このシークエンスは、恒夫の心がジョゼから離れる原因になったエピソードと捉えられている。 (ブッキー自身も、閉まっている水族館を見てだだをこねるジョゼを「きっちー」と言っている)。

だが、本質はジョゼのだだこねにあるのではなく、恒夫の提供した“おんぶという足”が無下にされたことにあるのだ。 なぜなら、恒夫が提供した“足(おんぶ)”を却下して、ジョゼが結果的に採用することになる“足(電動車椅子)”を付与したのは行政・国家であり、ここでようやく恒夫の恋敵が真の姿を現すに到る。 女版恋の鞘当てで、恒夫をめぐって争ったのはジョゼと香苗。 ジョゼをめぐる恋の鞘当てで、争ったのは恒夫と行政・国家だったのだ。 恒夫の恋敵の何と強大なことか。

恒夫は決してジョゼを嫌いになったわけではないのだ。 恋敵のあまりの大きさに「ひるんだ」のだ。 謎2:「どうして親戚の集まりに行かなかったのか」の答は、“借り物”の幸治の車で乗り付けることで、“ジョゼに自前の足を提供出来ない無力さ”を親が瞬時に見抜いて、無言の内に匕首として突きつけてくることがわかってしまったからだ。 これが、車が借り物ゆえに、恒夫が法事にジョゼを連れていけなかった理由である。

恒夫の、ジョゼからの撤退を決意させたのが弟との電話のやりとりなのは初めに書いたとおりだが、その決意を無言の恒夫からよく見抜き、許すジョゼ。撤退を決意した男と、それを海容する女。まるで戦場のふたりだ。大学生活のあまったれたセックス三昧を描いているように見えて、清々しい、いや神々しいまでの男女がバリアフリーのトイレの中に現れるのはそういう智術の場が生起しているからだろう。

「恒夫がどうして法事に行かなかったのか」「どうして水族館は閉まっていたのか」は、「謎のラストシーン」がくれた補助線、“野生と庇護(プロテジェ)”という通奏低音に気付くことによって明らかになった。 本来、野生であったはずの“ジョゼ”と“虎”と“魚たち”はプロテジェとして生かされている。 その事態を考えあぐねた恒夫は結局、庇護の重複から手を引いたのだった。 庇護には一方ならぬ力量が要る(cf.“こんな夜更けにバナナかよ”)。 恒夫は、ジョゼをめぐっての戦いが“自分”対“行政・国家”の戦いであることに気付いてしまった。 自分は国の肩代わりが出来るほどの、引き受けられるほどの力量と覚悟を持っているかと自問した結果、ジョゼからの撤退を決めたのであった。

残る謎はふたつになった。さて、2時間近くも並んだ行列も捌けて、あと一息で入口に達する。 ようやっと臨時に設営されたテントの庇の中に入ることが出来た。あちぃー。 小春日和の日差しは思いのほか強く、汗ばむほどである。 さて、なぜ苦行の如き行列並びに覚悟を決めたかといえば、この度、重文から国宝に格上げされた善財童子像を拝むためである。 駅に貼ってある“国宝展”のポスターもこの善財童子であるから、今展示の目玉と言えるだろう。

今展の国宝・善財童子像は鎌倉時代は快慶の作で、獅子に乗った渡海文殊に付く4人の脇侍のうちのひとりだ。 聖徳太子像と同様童子なので、これまたネットでは「愛らしい」とか「かわいらしい」と形容されている。 だがね、善財童子がどうして後ろを振り返っているかといえば、それは先導役だからであって、ではどうしてそうやって先頭を切っているのかといえば、それは童子には霊力があるからだ。 古代、童子と鬼は同体なのだ。聖徳太子像がどれもこれもどうして皆童子なのかといえば、それは太子が霊力を持つ鬼だからなのである。

聖徳太子の話は今は措いておいて、善財童子だ。 謎6:「幸治(新井浩文)に対して、ジョゼはどうして母親気取りなのか」を解く鍵として善財童子にご登場願おう。 国宝・善財童子のお姿を見て、はっと気が付く点はその髪型だろう。 これは総角(あげまき)といって古代中国の童子の髪型だ。 “ジョゼと虎と魚たち”をご覧の皆さんにはもうおわかりだろうね。 そう、乳母車に入ったジョゼを坂の下から押してくる近所の女の子と同じ髪型だ。

そもそも、乳母車に入れられている時点でジョゼも童子に模されており、ジョゼ御一行が霊力を持つ鬼どもという暗示は、その出現の仕方が(坂の)下から上へという、冥界(深海)からの浮上という暗示を伴うのでわかりすぎるほどわかる。 だが、この印象的な女の子の髪型・総角が善財童子と全く同じ髪型であるということは、この子が丱女としてジョゼの脇侍であることを示している。

とすれば、ジョゼとは渡海文殊ではないのか。 呉智英は、ちょっとしたエピソードなど大海の如き仏典を隈無く探せばどこかに必ず似たようなものがあると嘯くのであるが、ここでの相貌は牽強附会の誹りを軽く去なすことが出来るだろう。 渡海文殊とは文殊菩薩の一姿であり、“三人寄れば文殊の知恵”と巷間口にされるとおり、“智慧”を司る御仏である。

いったい、ジョゼはどのようにして現れたか。 “サルモネラ”やら“ルミノール反応”やら、日常生活を上から俯瞰する“知恵”の人として現れたのではなかったか。 そして、文殊菩薩像が世界共通に必ず右手に差し抱くものがある。 利剣と呼ばれる知恵の剣だ。 恒夫との初めての邂逅の際、乳母車の中のジョゼの、その右手に握られていたものは何であったか。 ジョゼが渡海文殊に擬していることは理解戴けると思う。

ではどうしてジョゼは幸治に対して母親気取りなのだろうか。 ジョゼは童子であり、鬼であり、文殊菩薩であり、ここでは母である。 仏教において“母”と聞いて即座に思い起こされるのは、目連の救母説話であるが、ぴんとこない人もいるかも知れない。 だが、日本にお盆という風習があることを知らぬとは言わせないぜよ。

“お盆”は、正式名称を“盂蘭盆会(うらぼんえ)”という。 釈迦の十大弟子のひとり、目連尊者は亡き母が地獄に落ちて苦しんでいることを神通力で知る。 そして、餓鬼道に堕ちている母が飢えに苦しんでいたので食べ物や水を与えようとしたのだが、その口に入る寸前で何もかもが炎に包まれ燃え尽きてしまう。 打つ手が無い目連は釈迦に救いを求め、釈迦の言うとおりにすべての比丘(乞食)に食べ物を与えることで母親を極楽浄土に送ることが出来たと伝わる。この説話を元に生まれたのが、祖霊を供養する盂蘭盆会の行事なのである。

この話には余傳がある。目連とその母が出会ったときに、母は少女の姿だったというのだ。 釈迦と目連が連れだって来るのを迎えた母が「息子が来た」と喜ぶが、周りの人々が「どうしてお前より年を取っている男がお前の息子なんだ」と腐すのである。 少女が、年齢的にあり得ない男のことを指して「息子」と呼んだのだ。 唐突なジョゼの母親面と似ているとは思われないだろうか。 ちなみに、この母(少女)の名をサンスクリット語で“バドラカニヤー”と言い、その意味は“知恵の娘”である。

残る謎はひとつだ。 謎7:「(ケネス私的)名場面はどうして香苗(上野樹里)のシーンばかりなのか」。 劇中、最も感動したシーンが三つあり、それのどれもが香苗のシーンであることは先に述べたとおりである。 バリアフリーのトイレの中でのジョゼと恒夫の抱擁も勿論名シーンであるが、それは当然のこととして、私的名シーンに拘りたい。 そこでサブの謎「どうして恒夫は香苗を選んだか」も視野に入れて考えることとする。

香苗の魅力とは一体どこにあるのだろうか。 キャンペーンガールをやっているところを見られた後に入った喫茶店で、香苗が吐いた印象深いセリフがある。 「障害者のくせして」だ。 これは実に難しい台詞だろう。 ジョゼに感情移入している観客にとっては、ザラザラとした嫌な感じを与えるのは勿論、香苗のみならず上野に対しての印象が、役を越えて定着してしまうような強烈な台詞である。

だが、上野の演技によって、そういった事態は見事に回避されている。 香苗にはそぐわない禍々しい台詞であることによって、逆説的に香苗がジョゼを全人格的に承認してしまっていることを表してしまっているのだ。 上野が嫌な女に見えない理由はこうだ。 鞘当ての“敗者”たる上野は、“勝者”たるジョゼに悪態をつかずにはいられなかった。何しろ“殺したい”くらい憎いのだから。 だから、ジョゼの人格的欠陥、ありていに言えば性格の悪さを並べ立てることは十分に可能だった。 だが、上野が持ち出したのは障害という身体的属性についてで、それはつまり相手に事実上の人格的欠点を見いだすことが出来なかったという降参の体を意味している。 その発語は香苗にとっても道を踏み外していることはわかっているので、自己を処罰(就職なんてどうでもよくなった)せずにはいられなかった。 自分が行ったことに対してクヨクヨ悩む優しい性格であることが、逆説的にこの台詞によって示されるのだ。 脚本の巧さ、演技の巧さのなせる技であろう。 一方、香苗に対するジョゼの返しは「なら足を切れ」で、これは百戦錬磨の一声である。 他者からの視線(それが可視化されていようがいまいが)に敏感であらざるを得ず、平時に於いても鎧を脱ぎ去る事が出来ない、戦場の人の台詞なのだ。

ここで気が付くのは、プロテジェとして提示されたはずのジョゼが戦場(野生)の人として香苗の前に君臨し、逆に香苗が庇護されるべきプロテジェとして登場している逆転である。 どういうことか。 ジョゼは見られたくないものを見られた。 用便である。トイレで恒夫に見られたもの。 香苗も見られたくないものを見られた。 キャンペーンガールのコスチュームである。 たかが、キャンペーンガールのコスチュームだぜ? かたや用便、かたやコスチューム。深刻度が違い過ぎるだろう。

ジョゼが“戦場(野生)”の人として反転したのと呼応するように、ここでは、大したことでは無いことをクヨクヨと深刻に悩む香苗の方が被庇護性(プロテジェ)を強く漂わせているのである。 ジョゼと香苗は互いに双義性を持つ存在として描かれている。 それは取りも直さず、トリックスターとして香苗が実に有効に作品のうちに着地したことを意味する。

俺は、恒夫が結局香苗を選んだことの理由をクヨクヨと考えていた。 恒夫の恋敵が強大なことは見て来たとおりだが、恒夫が香苗を選んだことの理由は決して消去法ではないように思われる。 香苗には魅力がある。 だが、どんな? 当初、俺はそれを“可塑性”だと思っていた。 “殻・鎧”の問題だ。 香苗には殻・鎧がないため、ジョゼと比べて圧倒的に被庇護性(プロテジェ)をフェロモンとして放っていると。 打たれたジャブ、ストレート、フックに対してジョゼははねのける術を持っているが、香苗はもろにくらってしまうだろう。 それを“可塑性”と呼んでのことだ。 “♪あなた好みの女になりたい〜”とか“あなた色に染まる”という女性像も、この“可塑性”の問題である。

恋敵たるジョゼに対して香苗が放った矢は何かと言えば、ジョゼに付いていって同じことをするという無謀なものだった。 ジョゼは自分でも理解しているとおり、深海魚であり、水底の女であり、冥界の住人である。 香苗はそれをして恒夫を惑わせたと錯覚して、ジョゼに付いて深く潜ることで張り合おうとしたのだった。 素潜りで100m潜れるダイバーに、金槌が付いていって張り合おうとしたようなものである。 どうでもよくなった就職、自暴自棄の末嫌々衣装を着て踊る煙草のキャンペーンガールといった香苗の自虐的な行動は、“潜る・沈む”下降志向を源泉とする。 ジョゼが深海魚なら、香苗は金魚鉢の金魚だ。 香苗のかわいさ。 それは、狭いところでアップアップしているからである(“のだめ”も見かけと裏腹にアップアップだったね)。

坂の途中での決闘シーンが名場面なのも、異界の底より現れ出でた御一行様のただならぬ気配に気圧されてはいけないと、必死に自分の特質から離れ逸れた“悪”を引き出し、呑まれないように突っ張る香苗の姿が痛々しくもいじらしいからだろう。 だって、ビンタの後に自分の頬を差し出すなんざ、ね、いい奴だろこいつ。

そして、恒夫がジョゼと別れて香苗と歩くシーン。 車の喧噪の音は、恒夫が香苗の話を聞いてないことを示しているが、かき消されぬ香苗の言葉はきちんと機能している。香苗は恒夫を気遣い、温かいものを食べようか、私が作るね、と自我をまるで出さずに恒夫を気遣う。 自我を持たずに男の嗜好を気にする女。 これはフェミニストが真っ先に撃つ女性像だが、ここでの香苗は将に撃ってくださいと言わんばかりのステレオタイプの古い女である。 だが、これは謎3:「原作では上手くいっている二人が、映画ではどうして別れたのか」で見て来たとおり、おせいどんの目に見えぬ問いかけ、“だんなはんにやしのうてもろうのがそないに悪いことでっしゃろか”を下敷きとした、アンサーとなっているのだ。

つまり、原作とおりの下敷き・構造に則ったハッピーエンドが隠されていると言える。 まあ、凄い技を使った脚本だね。 これで謎7:「(ケネス私的)名場面はどうして香苗(上野樹里)のシーンばかりなのか」の解答も出たと言えるだろう。 ひとまずは、冒頭に挙げた7つの謎に解答を与えることは出来たのではないか。 炎天下(小春日和のだが)に2時間も並んで、中の観覧も1時間強、今日は本当に疲れた。帰りは上野から東京まで出て、快速で帰ろう。そうすれば必ず座れるからね。 電車の中で酣眠すること間違い無しだ。 んじゃどうも。

四谷か。快速だから速いね。でもまだ一眠り出来そうだ。

ああそうか、今日は日曜日だから阿佐ヶ谷、高円寺、西荻窪には止まらないのか。阿佐ヶ谷通過中と。 ん? そういえばコスチューム姿で恒夫と入った喫茶店って、阿佐ヶ谷の喫茶店がロケ地だったんだっけ。 ほんとあれは名シーンだよね。

ん?

待てよ。恒夫はどうしてジョゼから手を引いて香苗に行ったんだっけ? あまりにも強大な敵に負けたからだ。 福祉という広汎な敵に。

福祉……? ジョゼの家に福祉を持ち込んだのは誰だ?

香苗じゃないか。そして、それがまずジョゼと恒夫の喧嘩の原因になっている。 ということは結局、香苗が持ち込んだ“福祉”が強大化して行って、恒夫にジョゼを諦めさせる原因となったのか。

つまり… 香苗が置いていった爆弾が見事に功を奏したわけだ。 香苗は恋敵の家に、トロイの木馬を……?

そうか、ジョゼは“料理の人”だった。恒夫はまずその料理の腕に釣られた。 だが、香苗の得意な料理は何だったろう?

何も作ってないじゃないか。 国道の喧噪シーンで「おなかすいたやろ。何か温かいもんでも食べにいこか。おうどんは?」と訊いている。

何か作ってあげるわと言うも、得意な料理がある風ではない。 一言目は「食べにいこか」と外食を勧めている。

本来ジョゼと張り合うのなら、料理で張り合うのがおせいどん的女の戦い方ではなかったか。 上野樹里は料理が得意でない女であることを、恒夫に隠している。 俺は香苗を無条件に、かわいい女だと思っていた。

だが上野が取った行動は……

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