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[コメント] 冬の光(1963/スウェーデン)

問われるべきは神の欠如(不在)ではなく過剰であり、付き纏い嫉妬深く命令し続ける者こそ迷えるキリスト教徒にとっての神なのだった。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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牧師グンナール・ビョルンストランドにとって女教師イングリッド・チューリンこそ実は旧約的な神であり、不在でもなんでもない、という感想を持った。神はどこにでもいる。お告げにより彼につきまとい、迷惑にもひとり祈る女。神はなんと惨めなオールドミスなのだ。気づかないのは形式に囚われた悲劇であり、底なしのイロニーである。生活の平安を求めるのを、神はお喜びにならない。むしろ悩んで自殺する者と、静かに受け入れるその奥さんをお求めになるものだ。キリスト教ってのは凄いよ。

こういうおそらく傍流の感想も許容する懐の深さが本作にはある(女教師の背中越しにだけ神父にとっての神がいる、というのがおそらく正解で、だから最後に神父は女教師と神の場所で向かい合うのだろう。しかし私は旧約的な荒ぶる神の姿を女教師に見たいのである)。長い長いチューリンの独白、寺男の解釈の件、そして簡潔な収束もいい。河の轟音のなか雪に転がる遺体、続く学校と未亡人の家の佇まいには、確かにタルコフスキーに影響を与えただろう、恐ろしいほどの静謐がある。

中国が核実験を成功するのは64年、本作制作の翌年。本作の不安はもうひとつの『生きものの記録』でもある。騒乱の予感をも、神はお喜びになるのであろうか。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)DSCH けにろん[*]

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