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[コメント] 気狂いピエロ(1965/仏)

フラーに唆されて映画を生きるピエロ。繰り返されるクラシックの断片とクタールのキャメラでトランス状態にさせられる。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







映画の登場人物なのに何をしてよいか判らないフェルディナンはフラーに唆される。「映画とは戦場。愛、憎しみ、アクション、暴力、死。つまりパッション」。よっしゃそれだとフェルディナンは逃走を始める。マリアンヌは同調する。「人生が物語と同じならいいのに」「意外と違わないものだ」「違うわピエロ」。フェルディナンはピエロにされる。ピエロはカメラ目線で独白する。「人類は二重人間の時代に突入した。僕らは夢でできている」。この男は死ぬ寸前、ダイナマイトに着火するまで映画という夢の中にいる。

この基調に則り、本作は映画や小説、詩の引用とパロディで埋め尽くされている。そのように観れば、本作は何も難しくはない、とても愉快な作品だ。ローレル&ハーディを真似て殴ったり、フォードを海に突っ込ませたり、隠遁した老人になったり、ギャングに狙われたり(この侏儒のヒトラーは『新学期 操行ゼロ』の校長が思い出される)、女房を寝取った男によい旅をと挨拶されたり、喜劇俳優の独白につき合わされたりする。なぜならこれは映画だから。全編これパターン遊びであり一瞬のパッションであり、最後は当然のように死んでしまう。キャメラに向かって喋ったり、二人が再会して物語が転がり出すにあたって「CIMENA」とネオンサインで示したりと、ブレヒトのようにこれは映画であると観客に端々で強調している。

しかしパロディだけならもっと痛快に進めればいいものを、「愛と憎しみ」だけはやけにマジになっている。ゴダールはアンナ・カリーナとその年に別れることになる訳で、彼女とジャン・ポール・ベルモンドの確執はたいへんに生々しく描かれ、私小説ならぬ私映画の趣がある。「私はセンチメンタルな女、それだけよ」など、カリーナがゴダールに云ったままのフレーズじゃないのだろうか。

20世紀末頃は、映画批評と云えばやれあの画面は何とかからの引用だとかかんとか、引用噺ばっかり読まされてウンザリしたものだったが、本作はそんな安いものではない。映画の引用を生きたフェルディナンはマリアンヌに拒絶されるのだから。映画は「ケツの時代」に敗れた。ダイナマイトを着火してから消そうと慌てるゴダールはここでも孤独だ。そしてベラスケスを引用する自信に相応しく、全てのシーンがゴダール=クタールの美しい一幅の絵である。

ゴダールほど博覧強記、映画を山ほど観た映画監督はいない訳で、全部判らないのは当たり前だ。一回観て判りませんでしたではもったいない。これは繰り返し観るべき映画である。おれの文章は暗誦しろと云ったのはニーチェでゴダールではないが、本作は観る度に必ず新しい発見がある。

フェルディナンがベトナム戦争のニュース映画をかけている映画館で本を読む件、前の席でじっとニュースを観ているのはジャン・ピエール・レオー。以降の政治映画では彼が主役を張り続けることになるのを、このシーンは予告している。本作のタイトル、私の若い頃は「気狂い」が駄目だというのでフランス語そのままに記された時期があったが、いつの間に元に戻ったのだろう。なお、ゴダールはフランス人じゃありませんので念のため。

(評価:★5)

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