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[コメント] 母(1963/日)

「産めよ増えよ地に満ちよ」とは、別に全世界を駆け巡った訳ではなく、こういう貧しい関係においてひっそりと呟かれたに違いない、というリアリティが宿されている。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
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何とも異様な映画だ。冒頭、病床の夫婦を覗き見る乙羽信子の無表情とこれにかぶせられる妙な電子音楽、吉田喜重ばりの前衛劇が始まるかと思いきや、母との確執や不良の弟や息子の病気など松竹系リアリズムが展開される。吉田の全編ドライに染め上げる指向とは似て非なるもので、杉村春子的リアリズムを本筋に置きながら、視点をずらすことにより所々に穴を穿つ方法を取っている。このアブストラクトはやがて『絞殺』辺りで頂点を迎えることになる。

本作の主役は機械であり、ほとんど農機具のような印刷機、オート三輪にオルガン、そして良くも悪くもこれら機械に生かされている人間が描かれる。神社の境内における乙羽のオート三輪の稽古などとても奇妙だ。通常のリアリズムならコミカルな音楽でも流して笑いを取り、殿山泰司と微笑み合って夫婦の絆を確認し合ったりするものだろうが、そのような演出が一切ない。オルガンの件は教条左翼なら物欲を煽る描写などご法度だろうから、これは新藤の興味が初期の貧困告発から大きく変化しているのを示している。それはいわば、貧困者の自立といったものだ。清水宏の児童映画系だが、頭師佳孝の死に対して林光は不協和音たっぷりの現代音楽をスコアするアブストラクト感がまた異様このうえない。

この自立は女性の性によるものだ。まるで印刷機のような性。「どうして死んじゃったの、バカね、もう生まれてこないのに」「何にもできない女だけど、命を宿すことはできる」。岡本太郎の題字からして徹底している。創世記が云う「産めよ増えよ地に満ちよ」という言葉は、別に全世界を駆け巡った訳ではなく、こういう貧しい関係においてひっそりと呟かれたに違いない、というリアリティが宿されている。近親がなぜか次々と亡くなるのは、そういう一時期を人は誰しも経験することだ。こういうときに女性はこんなことを考えるものなのだろうか。男としてこの認識は軽い衝撃があるが、想像するに女にとっても衝撃だろう。あたしってそんなことできるんだ、と。

この作品が発表された63年は今村が『にっぽん昆虫記』を撮った年でもある。抵抗と性、という主題がこの年に広がった(吉田も同調しており、やがて大島も後を追うことになる)背景は何だったのだろう(吉本隆明の「共同幻想論」の影響−対幻想は共同幻想と逆立するってやつだ−なのかなと漠然と思っていたが、この単行本化は68年だった)。本作にはベビーブーム期という背景があり、川島雄三が『愛のお荷物』で政府の人口抑制政策をからかったのは55年。現在の人口減少社会から眺めると乙羽はとても頼もしいが、当時はむしろ迷惑だったはずだ。

高橋幸治(医師として登場する宮口精二の元運転手という小ネタがある)が幼少の折、雨の朝に田んぼに下駄を投げ捨て、姉が黙って拾いに行く件はとても印象深い(ラストを除いて、音楽はこのときだけ美しいメロディを奏でる)。墓場の鬼太郎そっくりな頭師の顔は殿山泰司と絶妙の類似を示しており、ギョロ目の高橋と併せ、この映画の男性は異様な奴ばかり。乙羽の決断の崇高さがいや増すばかりである。それは男性への愛情という次元からでは全然ないのだった。

(評価:★5)

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